楽園の発見-フンボルト-

晴れ間をくぐって 039-2gs久し振りの夕焼け

この世界には前人未踏の楽園があるはずだと思います。
人工衛星がくまなく世界を写し出すようになった現代でも実は人が入っていない幻のような景色があると言ったら,一度は見てみたいと誰もが思うでしょう。
200年以上も前のことです。フンボルトという人がいました。あのフンボルトペンギンやフンボルト海流の命名の由来となった人です。彼はそれをやってのけ,アマゾンの奥地にその楽園を発見したのでした。
そうです。「カシキアーレ」という伝説の川です。アマゾン川とオリノコ川がどうも繋がっているのではないかという話がありました。スペインのフランシスコ・デ・オレリャーナ(1511-46)は、エル・ドラド(黄金郷)を求めてこの川を探検しました。オレリャーナはフランシスコ・ピサロとともにスペインによるペルーの征服に参加し、ゴンザーロ・ピサロがエル・ドラドを探して行った1541年の遠征に参加した士官の一人でした。
1541年12月に、現在のナポ川でオレリャーナの船は本隊から分離され,その後、オレリャーナの部隊はアマゾン川の全距離を航海し、1542年8月に河口に到達しました。
この経緯は探検叢書に「南米紀行」として出ています。この時に「カシキアーレ」という謎の川の存在が指摘されていたのです。フンボルトは幻の川「カシキアーレ」の存在を確かめたかったのです。

そしてついに

あるとき,湖と化した暗い森の中で,舟は金色に輝くおびただしい魚の群れに囲まれたことがあった。




水泳 029-2s

フンボルトはWikiに,次のように紹介されています。

フリードリヒ・ハインリヒ・アレクサンダー・フォン・フンボルト( 1769年9月14日 - 1859年5月6日)はドイツの博物学者兼探検家、地理学者。兄がプロイセンの教育相、内相であり言語学者のヴィルヘルム・フォン・フンボルト。近代地理学の金字塔、大著『コスモス』を著したことは有名。カール・リッターとともに、近代地理学の祖とされている。また、ゲーテやシラーや、ヨーロッパ滞在中のシモン・ボリバルなどと、親交があった事でも知られる。王立協会外国人会員。


探検家,博物学者,地理学者,植物学者,どれを取っても第一級の時代の寵児となった人です。カント,シラー,ゲーテ,ベートーベンと同時代の人です。まさに世界が「疾風怒濤」の学問や文化が沸き返っている時代をつくった一人です。

天候不順な今年の8月。私は仕方なく本でも読みながらと過ごしていて,そして,本棚にあったフンボルトについての本をペラペラめくっていました。そして俄然,昔に取り憑かれた探検熱にまた冒されることになったのです。

まず私のフンボルト熱に冒された経緯を紹介しましょう。探検の話はもともと好きでした。アマゾンの探検,南極探検,ブルースの「ナイル川探検」,日本では河口慧海の「チベット旅行記」。そんな本を読みながらフンボルトにも自然と興味がいくようになりました。 ピエール・ガスカールの伝記「フンボルト」白水社(1990)を読んだ辺りで,一本の映画に出会いました。ヴェルナー・ヘルツォークの『アギーレ/神の怒り (1972)』です。これはすごい映画でした。1541~1542年のピサロの「南米紀行」を種本にしてつくった映画でした。そして「カシキアーレ」のとりこになり,フンボルトの 『新大陸赤道地方紀行』(17・18世紀大旅行記叢書第 岩波書店 2001)を手にしたのです。幻の川「カシキアーレ」。アマゾン川とオリノコ川の接点の川がカシキアーレです。

水泳 035-2s

1800年7月にボンプランとフンボルトが,クマナに入ってから,その年はカシキアーレの探検に使われました。
そしてついに,カシキアーレの入り口に達したのです。夜のような鬱蒼としたジャングルが金色の光に包まれたのです。

あるとき,湖と化した暗い森の中で,舟は金色に輝くおびただしい魚の群れに囲まれたことがあった。


それは楽園の入り口でした。

(この話はつづきます)


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