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夜に下りて行く

栗駒山 113-2gs
湿原に消えてゆく道

『「アルプ」の時代』(2013)を書いた山口耀久(あきひさ)が,申し分なく新しいスタイルの紀行文として挙げたのが串田孫一の「島々谷の夜」でした。

「島々谷」は穂高に入る徳本(とくごう)峠に続く道です。あのウェストンが1891(明治24)年にこの道を通って上高地に入ったのでした。島々谷を遡り,二股取入口,岩魚止小屋,徳本峠まで8時間30分の行程です。この昔からの道を辿った「島々谷の夜」は,何と言っても夜の景色を巡るところにこの紀行文の視点の新しさがあって山口氏はベストと挙げています。山の夜の世界を描くところに山の魅力を見いだそうとする串田氏の出色の出来だと激賞しています。

現在「山のパンセ」に収められている「島々谷の夜」は,「突然ジュウイチが鳴いた」で始まり,ランプを灯しながらの真っ暗な山道を歩いていきます。特段事件が起きるわけでもないのですが,夜独特の雰囲気が普段は夜歩かない者にも不思議な感覚で迫ってきます。谷の上の尾根を静かにころがるように動く月。少人数の室内楽のように強く弱く聞こえる谷川の水の音。真っ暗な道を突然横切って行く動物たち。夜独特の研ぎ澄まされた感覚で書かれていきます。
しばらく行くと橋がある。その上に立って溪の上流の方を眺めると、黒ぐろとした山が空の正面に立ち塞ふさがっていた。その中腹に一箇の電燈がついていて、その光がなんとなしに恐怖を呼び起こした。バァーンとシンバルを叩いたような感じである。私はその橋を渡るたびに私の眼がいつもなんとなくそれを見るのを避けたがるのを感じていた。
(中略)
なんという暗い道だろう。そこは月夜でも暗い。歩くにしたがって暗さが増してゆく。不安が高まって来る。それがある極点にまで達しようとするとき、突如ごおっという音が足下から起こる。それは杉林の切れ目だ。ちょうど真下に当る瀬の音がにわかにその切れ目から押し寄せて来るのだ。その音は凄すさまじい。気持にはある混乱が起こって来る。大工とか左官とかそういった連中が溪のなかで不可思議な酒盛りをしていて、その高笑いがワッハッハ、ワッハッハときこえて来るような気のすることがある。心が捩ねじ切れそうになる。するとそのとたん、道の行手にパッと一箇の電燈が見える。闇はそこで終わったのだ。
突然迫っている杉林の闇が切れて,近くなって聞こえる谷川の瀬音が男が高笑いをしているように聞こえるのである。
串田も暗闇をやり過ごすかのように,こんなことをします。
私は灯りを道の曲がり角に向けて,そこからひょっこりと私の命を脅かす怪物が現れることを,しきりに想像してみたが,殆ど効果はなかった。怪物はあまりに滑稽すぎたので,熊にしてみた。しかしこれも駄目だった。こんな時に私が想像する熊はちっとも凶暴ではなくて,恐縮している容子(ようす)だつた。
串田の闇を照らしていた電灯は丸木橋のところで切れて,全く進めなくなり沢のところで野宿することになります。
「自分がなぜ夜を選んでこの谷をのぼってきたかということの続きを考えてみようかと思ったが,流れの音が私に何も考えさせようとしない。
 それに道を失い,その後で灯りを失った私は,全く夜に征服されてしまって止むを得ずここでぼんやりとひっくかえっている。灯りをつけてせっせと歩いているうちは,夜が幻想を与えるものとして,あるいは私に試練を与えるものとして,ともかく考える対象となるのだが,どうしようもない闇にこうしてしばられてしまっては,思索などは気取りすぎていていまいましい。」
この「島々谷の夜」の最後を串田はこう締めくくります。
星が見えた。三つ見えた。白鳥が天頂の近くへ来ている。一時ごろだろうと思った。


栗駒山 085-2gs
草紅葉

今日,この話をし始めたのは,自分の心の底にずっと下りて行くと何か自分でも捉えようのないものがあって,それを理解しないと自分の新しい見方ができてこないのではないかと思っているからです。先日栗駒山に登った際,真っ暗なブナの林を歩くことで闇を感じながら感覚の限界を再び呼び起こそうという気持ちになりました。夜に単独で闇の中を歩くことでふつふつと湧いてくるものに身をゆだねることの大切さに気付くのです。世界を実感として捉えることができる瞬間が訪れるのではないか。修験者が山々の中を駆け回ることや夜の行(ぎょう)を行う意味がそこにあるのではないかと思ってしまいます。この世のものは様々な多様性に満ちていますから目移りばかりしてしまいます。しかし,それを見て,感じている自分が世界の上っ面だけを見て感じたり,写真を撮ってばかりいては何か足りないのだという気持ちになるのです。飾りなく,ざらざらと感じるこの世界の奥の手触りを感じたいと思うのです。ただ表現されたものをなぞっていてはいけないんだという気持ち。概念でまとめ上げられた虚像を拒否したい。
 そこに観察の勤行(ごんぎょう)があります。この辺に行くと,文章や教義解説や説法の領域では決して納得できるものではない,この世に対する深い了解がないと分からない。
中沢新一がチベットで体験した宗教的な体験を話すときに,バリ島でのバリアンという呪術師について行った行が「夜釣り」だと言います。毎晩毎晩夜釣りに出かけるというのです。実は大切なことは釣りではなく取り巻いている夜の暗闇の気配や匂い,風,空気感やそのゆらぎに集中する行を行うことで心の底に下りて行く技術を感得するといいます。つまり世界を知ることは,概念ではなく実感という身体で行う鍛錬からしか生まれないということなのです。


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