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消して生まれるという意味-賢治「薤露青(かいろせい)」-

振替月曜 071-2-2s
桜の精現れる

今は懐かしい桜の季節の写真を見つけた。
しかしこの写真は変な物が写っていたのでアップはしていなかった。この日は何枚写してもこのような物が写ったのでした。
これは「桜の精」ではないかと確信したのです。大変なものを写してしまったと思いました。やっと桜の真の姿に出会えたのかと驚き,背筋が寒くもなりました。

ところが・・・。
気付いたのです。

いろいろ撮ってみますと,写り込んだ,この桜の精は,ほんとうは自分の荒い鼻息だったのです。

夕方 102-2s
霧の中

さて宮沢賢治の「薤露青(かいろせい)」という作品は詩の成立時期により「春と修羅」第二集に収められた形になっています。
1924.7.17の日付の「薤露青 」は,類を見ない透明性と作品の質の高さにより私も大変好きな作品です。ところがこの「薤露青(かいろせい)」という作品はもともと賢治自身によって一度は書かれ,そして最後には抹消された作品だったのです。
薤露青(かいろせい)」もともとは音楽用五線ノートの裏面に書かれていて,かつ全体が消しゴムで消されてあったものなのです。それが1972年の「ユリイカ」8月号に天沢退二郎校注・解説でその消し跡から文字が復原され発表されたのでした。
といういわく付きの作品だったのです。

一旦「薤露青(かいろせい)」という作品は,消しゴムですべて消され,消し痕から甦ってきた作品なのです。
これは実に興味深い事実です。「未完成の完成」を追い続けた賢治にとって,「消す」という行為が「全て無に帰す」ということでは決してなく,再び姿を変えてメタモルフォーゼ(変態)を繰り返す作業を,自らの作品の生成と成熟の過程そのもので行っているのです。この変容され続ける作品群は,作品の作り手である賢治が心の底の闇から立ち昇ってくる形態も知らない感覚をたよりに手探りで形象化させて文字に変身させていく作業そのものでした。「せはしくせはしく明滅しながら」ともりつづけているとは,その形象もない感覚群で,文字として生まれていく世界の誕生の場面に立ち合っているということになるのです。
声のいゝ製糸場の工女たちが

   わたくしをあざけるやうに歌って行けば

   そのなかにはわたくしの亡くなった妹の声が

   たしかに二つも入ってゐる

     ……あの力いっぱいに

       細い弱いのどからうたふ女の声だ……
妹のトシの声は明滅し,生まれては消えていきます。そのようなはかない歌のような声がか細く,それでも確かに,この世に一瞬響いて消える。沈黙にその風にゆらぐ糸のような声の残響がたなびく。この「薤露青(かいろせい)」という作品がもともと音楽用五線ノートに書かれ,消されていたとは,なんと象徴的なことなのでしょうか。文字としてこの世に生まれても,歌曲として生まれても,賢治にとってはこの世に生まれた命を大切に育て,メタモルフォーゼさせ,完成形を目指す「作り手」としての義務を一生背負っていたのです。それは稲を育てることと同価ですし,花を育てると言うこととも同価なのです。

夜 010-2-2s
流れる雲

それでは「薤露青(かいろせい)」最後のあの語りかけは何を意味しているのでしょうか。これは浜垣誠司氏が何度も読者に語り掛けては深化を続けているテーマです。壮大なる賢治交響曲のテーマ部分でしょう。
  ……あゝ いとしくおもふものが

       そのまゝどこへ行ってしまったかわからないことが

       なんといふいゝことだらう……
どうしてトシの死をこのように言えるのか。どんな心境の変化があったのか。どんな思想の転換があったのか。誰もが信じられない言葉です。

私は賢治自身がこの部分を書きながら消していった意味がこの言葉にあると感じます。決して「なんといいことだろう」などとは露ほどにも思っていなかったのです。どうしてもそう考えなくてはいられない程の悲しみを消化することなどできないでいるのです。だから彼はこの葬送曲全体を消し去ったのではないでしょうか。「薤露青(かいろせい)」全体を消し去ることで彼はこの言葉そのものを鎮魂の儀式としたのだと思います。

最後に賢治はあれほどモダンな言葉を使いながら,彼が作品を紡ぎ出す過程は実に日本人の魂のとらえ方に同調しているのです。折口信夫の魂の生成論を思い出しましょう。
天中を行き経る遊離した魂,神が降らせた魂が人体の中府に降りて触れた魂を殖やし整えるということである。
こうして殖え整えられた魂が活動する力をもち、その余韻が威勢をもって外に放たれるのであり,「触(フル)」「威(フユ)」「振」は神を識り、聡く明るく身体剛健、寿命長遠の神術であると説いている。

                                       「折口信夫の霊魂論覚書」小川直之 から
この魂のとらえ方は賢治が感じた明滅する光を「人体の中府に降りて触れた魂」と置き換えて,変態を続ける作品群を「殖やし整える」と置き換えて,作品が成立することを「こうして殖え整えられた魂が活動する力をもち、その余韻が威勢をもって外に放たれるのであり」 に置き換えると,魂の運動と賢治の作品の校正過程と一致していることが分かります。彼の永遠に続く作品のメタモルフォーゼは,書かれたもの(エクリチュール)を「魂」として成長させ,育み,運動させる行為だったと理解されます。


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