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人のさばくりあるべからず その2

霧の朝内沼 169-2gs
10/26美しい霧の朝

半ばこのお札を一遍は無理矢理に渡した後,その僧はどこかに消えた。不思議な出来事であった。
一遍は考えた。
「救いとはこのように受け取る人の思いだけで決められることであろうか。」

この後,一遍は熊野本宮証誠殿に進んだ。
先ほどの自分の出来事を悔いながら,信心を祈ると御殿の御戸が押し開き,白髪の山伏が長頭巾をかけておでましになった。見れば御殿の奥に拝礼する山伏,三百人ほどが床に頭を着けている。
おもむろに白髪の山伏は一遍の前に進み出て言った。
「融通念仏を勧める聖よ。あなたはなんと念仏を誤って,お勧めになることか。あなたの勧めで一切衆生がはじめて往生するものではない。十劫の遠い昔から一切衆生の往生はすでに南無阿弥陀仏と決まっているのです。それなのにあなたは信と不信を区別して渡したりするのですか。浄の人に念仏の札を渡し,不浄の人には渡さないのですか。あなたが決めることではないのです。知っているでしょう。すべての人がすくわれるのです。」

このお告げに一遍はすべての葛藤が一瞬で解けた。

霧の朝内沼 009-2s
10/26美しい霧の朝

後に一遍はこのときのことを次のように書いた。
「信も不信も条件ではなく,有罪も無罪も問題ではない。南無阿弥陀仏が往生するのだ。このことに気付いた時,私は一切の自力,我執を払いつくして,浄土の法門の極意を了解したのだった」
もともと人が道を求めても,驕慢,傲り,偏見,思想,我執の塊である。誤った考えからは誤った道しか生まれ出ない。念仏の札を相手の都合と偏った感情で,渡したり渡さなかったりすること自体がいけないことなのだと悟ったわけです。この時から一遍はひたちすらに賦算(ふさん)という「南無阿弥陀仏」と書かれた六字名号のお札を全国を歩き,渡したと言われています。その数,251724人。

霧の朝内沼 368-2gs
10/26美しい霧の朝

このことは私たちに何を教えてくれるのでしょうか。
ひたすら謙虚に求め続けなさい。物事を画策して,勝手に解釈したり,ねじ曲げたりすることのないようにすることですよ。そのためにも行に励み,すべてを捨てて「南無阿弥陀仏」と心から唱えることです。「さばくり」とは人の勝手な解釈と行いを牽制している言葉でもあるわけです。「人のさばくりあるべからず」とは,人が考え,判断し,行うことには,人は自分の理解する範囲でしか決定できないものなのだという常に反省を促す「いましめ」や「教え」が込められているのだと思います。

2回にわたり,親鸞や一遍が生きていた,浄土教の広まりの様子をよく表している逸話を紹介しました。
ありがとうございました。



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コメント

Re: 初めまして

sternenliedさん。
はじめまして。
嬉しいコメントありがとうございます。賢治は東北での知はいかなるものかという土着性の極致を見ようとした人ですね。
読んでいただきありがとうございます。

初めまして

リンクをたどってこちらにやって参りました。
素晴らしい写真と文章に感激しております。
私も宮沢賢治が大好きなんですよ。これまで読んだ本の中では、
世界中で一番純粋な言葉を綴る作家だと思います。
宮沢賢治の素晴らしい物語をドイツ人の夫にも読ませたくて、
彼の為に幾つか話を翻訳してあげたことがありました。

こちらの一遍上人のお話にも大きなインスピレーションを受けました。
2番目の写真はまるで一遍上人の葛藤が解けた一瞬を象徴してるように見え、
ドラマチックですね。
そして次の光満ちた美しい朝の写真も、葛藤から解放された一遍上人の
晴れ晴れとした心の相を表してるようにも見えます。
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