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なぜ賢治は白鳥省吾に会わなかったのか

仙人峠いき
     写真は「銀河鉄道線(釜石線) 宮守発下り最終列車通過」

今日のタイトルは「なぜ賢治は白鳥省吾に会わなかったのか。」
盛岡啄木会の招きに応じて白鳥省吾が盛岡で講演を行った。この大正15年(1926)年,白鳥省吾は六月に「大地舎」を立ち上げ,「地上楽園」を創刊している。最も充実している時期に入っている。この年の7月25日,白鳥省吾と賢治が会見する機会があった。しかし,実際は賢治が白鳥省吾と会うことを断ったという話がある。賢治が,一緒に暮らしていた千葉恭を使いとして送り,「職業詩人には会わない」という旨を伝えさせたという逸話である。この出来事は割合に本当だと本に載っているが,誰が賢治と省吾が会う約束をしたのかという疑問が残る。賢治が希望したのか,省吾が希望したのか。
会う約束をしたとしたら,人を介してのことなのか。いろいろな疑問がある。本当はどうだったのだろうか。この大正15年9月号の「地上楽園第1巻4号」の目次には「渋民村を訪ふの記」とある。講演があったのは確実だろう。しかし,白鳥省吾関係の本の年譜にはこの講演旅行は記録として残っていない。
菊池勝彦著「晩翠・省吾・亀之助」(アステップ刊)では「急に約束の面会を断った。大正15年7月25日のことである。」と書いてある。
 そこで私はこのように考えた。
・白鳥省吾は佐藤惣之助を通じて賢治の「春と修羅」の話は聞いていた。
・白鳥省吾は宮澤賢治に今度盛岡に行くので,是非お会いしたいと手紙を出した。
・賢治はその連絡を受けて一応は承諾した。しかし,あまり気が進まなかった。
・いよいよ当日,賢治はやはり主義として職業としての詩人には折り合わないだろうと決心して千葉  恭を使いとして会えないと返事をさせた。賢治は約束した手前,ぎりぎりまで迷ったにちがいない。
これが「急に約束の面会を断った」という文の意味だろう。
 こういう経緯ではなかったろうか。賢治は六月に「農民芸術論概要」を仕上げ,来月には羅須地人協会を立ち上げようとする時期であった。その時期に詩という遊びにかかわることは主義に合わないと賢治は考えていたと思う。

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