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柳田国男読み直し-日曜の蕪栗沼-

桜日曜 387-2s
11/19日の出

私は宮城県北に生まれ宮城で生活してきて,この地域独特の歴史に興味を持ってきました。地元の歴史を考えながらこのブログに備忘録を兼ねて修験道や神楽,伝説,農民史,宮沢賢治などを記してきましたが,どうもこの頃自分の見方や考え方に根本的な見直しが必要だと思うようになりました。

特に中世期の村々の葬送の手続きなどは誰がどのように行われてきたのだろうと考えると,宗派仏教の定着する前のことが気になるのです。その姿が,今日の遠野に残っている隠し念仏に現れています。隠し念仏は寺社で僧侶により葬式が執り行われ,その後に家に戻り,そこで村の衆がこっそりと弔いの念仏をあげていたのです。寺の住職はそのことも薄々は知っていただろうし,檀家である村の衆も公にはせず,ひっそりと執り行っていたので「隠し」念仏と名付けられたのでしょう。
このように意図的に隠さなければいけなかった葬式が何百年も連綿と続いてきたのはどうしてでしょう。

どうも中世期の村落共同体の葬式が寺の僧侶ではない,代わりの者が代表になって取り仕切ってきたと考えられます。ただ代わりの者ではなく信頼され,葬式の儀式や仏教のことをきちんと心得ている村の者が取り仕切ってきたのでしょう。それらの儀式はやがて東北の地に訪れる宗派仏教の波に洗われ,包み込まれ,塗り替えられていったのだと思われます。浄土宗や浄土真宗,天台宗,日蓮宗と次々と塗り替えられてその様式や教典の一部などがミックスされた形で「隠し念仏」の中に残ってきたのだと思います。ここに羽黒修験や全国を渡り歩く勧進聖(ひじり)などが残していく教えなども混じり合います。それを内藤正敏氏は読みほぐしていこうと成果を上げてきています。その視点は素晴らしいもので,例えば遠野の隠し念仏の中に残っていた不思議な呪文

阿字十方三世仏
弥字一切諸菩薩 
陀字八方諸聖経 
皆量阿弥陀仏
が,神呪経の一節であったことを突き止めました。では,この宗派仏教の僧侶には殆ど知られていない呪文が,どのように遠野にもたらされたのかについて,山形の竹田賢正氏が「板碑偈文「阿字十方」の伝承系譜について-民衆念仏信仰研究の一視点として-」で,日蓮宗に改宗した高野聖の存在を挙げている。ここで大切なのは勧進聖や廻国聖,高野聖などの存在です。つまり土着していない渡り歩いていく僧達の存在です。それらが下地にあって宗派仏教が定着してきたと考えるのが妥当でしょう。
では村々で葬式などの厳粛な儀式を執り行っていたのは誰か。
これが僧侶の代わりとなった「善知識」(浄土真宗)と言われる人でしょう。ある程度の仏教の知識と修行を積んだ先導ができる村の者だったりします。その村に「善知識」がいなかったら隣村にいる「善知識」に来てもらうということもあつたでしょう。
これが私の勝手な理解でした。この流れで読み解こうとしていました。ところが・・・。

桜日曜 607-2gs
11/19蕪栗沼

先日宮沢賢治と同郷の花巻出身の山折哲雄の「これを語りて日本人を戦慄せしめよ: 柳田国男が言いたかったこと} (新潮選書)2014/3/28発行を読んでいたときに,柳田国男の「遠野物語」から「山の人生」までの15年間の論考に焦点をあてて見ると

イカタ及びサンカ1-3 明治44-45
巫女考1-12 大正2-3
山人外伝資料1-5 大正2-6
所謂特殊部落の種類 大正2
毛坊主考1-11 大正3-4
俗聖沿革史1-5 大正10
と柳田国男の決定的な考え方を集中しているのがこの時期だと気付かされたのです。柳田国男は仏教で重ね塗りされて見えづらくなった部分を敢えて避けてこう言います。

「社僧,仏僧が先行して俗聖が出現したのではなく,俗聖の系譜が先行して社僧,仏僧が歴史の舞台に登場する肉食妻帯の風は俗聖の発生とともに古い。」と言うわけです。

つまり民衆とカミ・仏を媒介する生活技能者としての「善知識」がいて,それらの人達が渡り歩いたり,土着したりして仏教の中に組み入れられて「粉飾を施されていった」という視点です。これが「毛坊主」(有髪妻帯肉食の坊主)です。これは生活あっての神仏であるということです。信仰はとにかく生活の次ということです。

この視点でいくと,遠野の「隠し念仏」も読み直しが迫られることになってしまいました。自分にとってはちょっとショックです。


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