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おらおらでひとりいぐも-栗駒山冬景-

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朝霞む 一関骨寺村

第158回芥川賞を受賞した若竹千佐子の「おらおらでひとりいぐも」を読みました。いろいろ話題には上がっていましたが,実は私は読み始めに苦労しました。休みのない独白に乗れないでいたのです。やがて74歳だという主人公桃子の圧倒的なモノローグのエネルギーに呆然としてきました。そしてそのモノローグの沸々としたエネルギーは,「口寄せ巫女」の言葉ではないかと思いついたのです。まるでおしら祭文を唱えるような語り口で終始機関銃のようにこの世の煩悩を神の言葉でなだめさせ,この世の霊を大地に沈めていくイメージなのです。

巫女なので憑依が同次元で繰り返されていきます。だから表現はポリフォニックに多声的に発展していきます。多人格が同時間に交錯しながら独特な言語空間をつくりあげていくのです。若竹氏はその多声法を「小腸の柔毛突起」と呼んでいます。ゆらゆらとそよいでは勝手に語り始めるイメージなのでしょう。この柔毛突起という言葉は,この無時間の物語のまるでライトモティーフの役割を担っているのです。
オラハオメダ。オメハオラダ。(おれはおまえだ。おまえはおれだ)と。

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冬の沢

このような叙述は若竹氏自身がほとばしる内的な脳内言語を「奉納する」意味を持っているからこそ生のままに語られていきます。物語なんかに頼る必要がないようです。だからこそ物語が欠如していることが欠点として批評家から指摘される畏れはあると思うけれど・・・。しかし,ただ陳腐な物語に退行して再話するという方法よりは,一貫性のない無人格へ向かう「柔毛突起」の動きに任せることで普遍性を獲得していく作品を私たちは忘れていると思う。つまり「語りという手法」をそのままひたすら祈りの言葉と「対他」というあの世から送り返される言葉によってこの若竹氏の「告白録」は成り立っているのだ。

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冬樹際立つ

しかしこの74歳の主人公桃子の力強さはなんだろうと思う。自由へ向かう,この指向性の強さはどこから来るのだろう。したたかすぎる生への同化性といってもいい。この現実的な考え方の例を私は明治時代の女性を描いた小泉八雲の「明治日本の面影」所収の「おばあさんの話」に見つけることができる。
他人の為だけに働き、他人の為だけを思い、他人の為だけに生きる人、限りない愛情と限りなく無私の心を持ち犠牲を厭わず返礼を求めないそんなひとだ。しかし、何世代に渡り幼い頃からあらゆる面で厳しく押さえ込む事によりついに、その有り得べからざる理想が現実の物となった。
蟻か蜂のようにエゴイズムを知らず、我がままとは一切無縁で、人を悪く思う事の出来ない人、生まれ育った社会を離れては生きて行けないほど善良な人、無論これほど出来た人は古来、稀有で女性一般の風となることは決して無かったが少なくとも昔の日本では、それがお手本に出来るくらい身近な存在であった。そして、女性というものが教育によりどれほど変わりえるかを見事に称していた。
こうした女子は声高に褒められる事もなく、静かに愛され皆に慕われた。(中略)でも、おばあさんは、とても辛い目に遭ってきた。沢山の武士の家が金貸しに騙されて潰れて行った時代にはおばあさんも随分とひどい仕打ちを受けた。その上多くの愛する者達と死に別れた。しかし、その苦しみも悲しみもおばあさんは決して人に漏らさない。怒りをあらわにした事は一度もない。世の悪行についておばあさんはお釈迦様と同じように考える。それは迷いであり無知であり、愚かなのだから、怒るよりも哀れんでやらなくてはいけないと。おばさんの心には憎しみの付入る隙もない



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ブナの紋様

若竹千佐子の「おらおらでひとりいぐも」は,もう歴史に埋もれてしまった「口寄せ巫女」の語りと明治時代まで残されてきた女性の考え方を再発見することとなった。彼女が遠野出身だと知ってなるほどと感じた。東北の「口寄せ巫女」の血筋を受け継ぐ人がまだいることに安心した。


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