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祈る

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祈る  気仙沼線 現在の大谷海岸駅

気仙沼線の写真展を行い,気仙沼線の鉄道を写しながら実は鉄道の奥にある何かを自分は写しているのだと気付くようになりました。それは東北の地,特に沿岸部が津波から不屈の魂で立ち直ろうとすることにあると言ってもいいのではないでしょうか。自然は時に非常に過酷ですが,その自然と一体化して生きる哲学が東北にはあると思うのです。東日本大震災を経験した私たちは実は安定などない世の中にどう立ち向かうかと一生問われ続けているのです。

宮沢賢治の生き方に私たちがなぜか共感してしまうのは困難なことから這い上がる姿勢があるからでしょう。それが反映されての作品の価値ではないかと思えます。東北砕石工場に勤めるようになった賢治の人生の後半を人は「もったいない。もっと作品が書けたのに」と言います。しかし彼は炭酸石灰(賢治が名付けた言葉です)を売りながら自分の抱えていた課題に対し,次々と実践して答えを出していった時期だったと思えます。賢治は,この時期まさに格闘の毎日に明け暮れました。そして身体を壊しました。

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金星沈む 6/2撮影 気仙沼線 陸前豊里-のの岳  画面左の金星が一際輝いていました。

一体この困難に果敢に立ち向かおうとする姿は賢治だけではありませんでした。この時代を生きた人々は皆そういう生き方をしていました。「雨ニモマケズ」の中に意識下で通底しているものがあの時代の人々にもあったということです。
ではどうして賢治は「雨ニモマケズ」でなくてはならなかったのか。彼はなぜいつも何かにせかされるように動き続けなければならなかったのか。信仰の力と言う人もいます。人柄という人もいます。

私はこう思います。賢治は津波からの復興の歴史と重なる時代の人です。彼の生き方が津波から這い上がろうとする時代の不屈さを体現していた人だったと。
彼は明治三陸津波の年に生まれ,昭和8年の津波の年に亡くなりました。
この時代に生きた人々はすべて津波からの長すぎる復興の途上に生きたのです。明治三陸大津波は明治29年(1896)6月15日,賢治が生まれたのは2か月後の8月27日。昭和8年の大津波は昭和8年(1933)3月3日,賢治が死んだのは9月21日。津波があった半年後です。

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夕陽電車 6/2撮影 石巻線 電車の真上に来るのはあと一週間ほどでしょうか。

賢治と津波のつながりを研究している人もいるかもしれません。しかし,彼の生きた時代の東北はどうしようもなく津波から這い上がるしかなかった,そういう時代だったのです。その彼がその現実と格闘し,病気とも格闘しながら,何を祈っていたのか。それは「雨ニモマケズ」の中に的確に表現されています。

気仙沼線の歴史を辿ると,津波から這い上がる人々の思いが重くのしかかってきます。
そして今,私たちも賢治と同じ場所にいます。


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