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たましひの所在「折口信夫論」松浦寿輝著

たましひの所在
写真は山形の薬師桜 2009.4.26

 私は折口信夫を読むようになり,ことさらに心が落ち着くようになった。特に彼の「たましひ」の考え方は仏教に取り込まれ,西洋ロゴス主義で消し去られようとする本来の日本人の持っていた考えのすばらしさを感じた。特に,写真を撮るようになってからは,自然のすべてのものにたましひがあると感ぜずにはいられないことが多くなった。折口はこの生きものすべてに通底するものを「たましひ」と名付けた。個人でも高貴なるたましひが入ってきたり,そうではないたましひが入ってきたりする。たましひは出入り自由なのだ。だから,よい「たましひ」を入れるために「喪に」籠もり,静かに待つ。季節で言えば冬である。冬は「増ゆ」でもある。来るべき春のために蓄えるという意味がある。このたましひの考え方は,季節とシンクロしており,季節と同調することで植物の生育や動植物の生長変化とも見事に同調する。人も季節とともに生きる,生きものに過ぎないのだ。春とともに新しいたましひが入ってきたら,しっかりと離さないようにする「魂しずめ」や「魂ブリ」を行う。本来人の生死も,たましひが出て行ったから呼び戻すという,生き返らせるための儀式だった。だから葬式もたましひを呼び戻すという復活の儀式の意味だった。このように人の生死を超えて,たましひの運動がまずあったと考えていた。人はただたましひを受け入れる「器」に過ぎなかったのである。
 このように考える折口は「たましひ」の特長を「うかれ易くあくがれ易い」と言う。つまりたましひは簡単に人体を離れたり,入ったりするものだと言っている。オットーが「聖なるもの」で,人が聖なるもの(神)に出合ったときの感情の高揚を細かく描写したが,たましひが入ってきたときの新鮮なる感情に近いのではと思わされる。特に高貴なるたましひは彼方に有り,山を越え,水を辿って麓に降りてくる。だからたましひは美しい水のところから様々なものに宿る。
 さてポストモダンの旗手,松浦寿輝氏の「折口信夫論」だが,読んでみて西洋のロゴス中心主義でどれくらい折口が語れるものかと期待したが,いけなかった。やっぱり無理がある。テクストに対する読みの前提の構えの問題だろうか。松浦氏は氏の折口のテクストに対する自分の構えをこう言う。

「折口の言葉の不快さの裏面に潜む甘美な魅惑にも十分以上に素肌をさらしながら,いわば折口の言葉そのものの中で折口から遠ざかろうと努めることである。」

 テクストの読みの自由からからすれば,わたしたちはもう気付かなくてはいけない時期に来ていると思う。というのも,書かれたものにすぐ政治性を感じすぎるもの行き過ぎというものだし,書かれたものの異同を詮索しすぎることも研究としては大切だが,読みの行為としてはいかなるものか。西洋ロゴス主義で「飛躍が多すぎる」と結論づけたり,批判しても折口の魅力は決してなくなるものではない。この最後の章が「批評空間」に掲載したと書いてあり,さもありなん,この勢いは批評空間かと一人で納得したが・・・(そういう私も昔は批評空間を全巻買っていたが)。ただ,私という個人が読みを行う場合の厳しい中立性と戦略性を久し振りにこの本によって味わったことは確かだった。
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