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柳田国男「浜の月夜」から「清光館哀史」へ

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BRT気仙沼線 BRT陸前戸倉-BRT陸前横山 8/9撮影

この写真を見るとBRTの様子がよく分かります。バス一台だけ通ることの出来る細い道路は元気仙沼線の線路です。この線路を舗装してバス専用道にして列車の代わりにバスを走らせているのがBRTということなのです。各駅はバスの停留所のように整備され,ロケーションシステムが導入されて各駅のモニターに今バスが何処を走っているのかがリアルタイムに表示される仕組みになっています。
現在気仙沼発の上りは31本,下り気仙沼行きは気仙沼線の始発駅前谷地から5本,電車の終着駅柳津駅から10本,沿岸に出て本吉駅からは12本出ています。おおよそ一時間に2本という運行です。当初から比べるとかなり充実してきてBRTとしての利便性の高さがはっきりと出てきたように感じます。もちろんバス専用の専用道ですから,信号もなく,一般道のように渋滞に巻き込まれることもありません。その専用道は今のところ全体の50~60パーセントということでしょうか。これは気仙沼が沿岸部を通るため橋梁が極めて多く,津波で流された橋梁を架け直す工事箇所が多いために専用道進捗率が滞っているわけです。しかしJR東日本が震災次年度に専用道供用をまず60パーセントで進めるという目標を8年懸かっても確実に進める意志があって工事は進んでいることは頼もしいことです。

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台風の雨に煙る BRT陸前横山-BRT柳津 8/9撮影

ところで8月8日は柳田国男の命日だったんですね。ちなみに1875年(明治8年)7月31日生まれ - 1962年(昭和37年)8月8日没ですから87歳まで生きたということになります。

さて,大正9年8~9月の柳田国男の東北三陸沿岸旅行を取り上げている続きです。先回「浜の月夜」という柳田の情緒あふれる短編を紹介しましたが,今読んでも素晴らしい掌編です。現在の八戸の南,洋野町種市のさらに南,鉄道の駅で言えば陸中八木駅の南に小子内という小さな漁村がありました。そこで「清光館」とい小さくて黒い宿に泊まったのがお盆の頃でした。柳田の東北の三陸沿岸を北上する旅もおわりに差しかかった頃です。波音が聞こえる共同井戸の場所に月が昇り,三々五々集まった村の女達の笛も太鼓もない歌ばかりの静かな盆踊りが始まった夜の光景の描写がまた素晴らしいものでした。私も好んで紀行文は読みますが,日本を表現して極めて優れていると思います。

柳田は6年経った1926年の全く同じお盆の十五日にまた清光館を訪れています。「浜の月夜」の一晩が忘れられなかったのでしょう。その再訪の様子が「清光館哀史」となって残っています。東北旅行から戻ると柳田は翌年から渡欧し,ジュネーヴの国際連盟委任統治委員に就任します。日本語が全く通じない遠い外国での勤務は難しく,彼は日本の存在をを知ってもらうための語学教育の重要性を痛感し,帰国してから新渡戸稲造とともにエスペラント語の公用語の必要性を説くことになります。そうして3年して日本に帰ってきます。そして懐かしく忘れられない小さな漁村の小さな宿屋「清光館」を訪ねるのです。

この時には八戸線も開通していました。柳田は八戸経由で南下し,出来たばかりの陸中八木駅に降り立ちました。小子内の清光館にさほど苦労することなく辿り着くことが出来ました。ところが・・・。

柳田国男が再訪した陸中八木駅-1
6年後に再訪した清光館から見た盆の十五日の満月の夜

懐かしく降り立った清光館への道を思い出と共に急ぐ柳田はこう書きます。
あの共同井があってその脇の曲がり角に,夜どおし踊り抜いた小判なりの足跡の輪が,はっきりと残っていたのもここであった。来てごらん,あの家がそうだよと言って,指を差して見せようと思うと,もう清光館はそこにはなかった。
まちがえたくても間違えようもない,五戸か六戸の家のかたまりである。この板橋からは三四十間,通りを隔てた向かいは小売店のこの茅葺きで,あの朝は未明に若い女房が起き出して踊りましたという顔もせずに,畑の隠元豆か何かを摘んでいた。東はやや高みに草屋があって海を遮り,南も小さな砂山で,月などとはまるで縁もないのに,なんでまた清光館というような,気楽な名前を付けてもらったのかと,松本・佐々木の二人の同行者と,笑って顔を見合わせたことも覚えている。

あの宿,清光館はなくなっていたのです。「その家(清光館)がもう影も形もなく石垣ばかりになってるのである。」

「月日不詳の大暴風雨の日に村から沖に出て帰らなかった船がある。それにこの宿の小造りな亭主も乗っていたのである。女房は今久慈の町に往って,何とかという家に奉公をしている。二人とかある子供傍に置いて育てることもできないのは可哀想なものだという。
その子供は少しの因縁から引き取ってくれた人があって,この近くにおりそうなことをいう・・・」


哀しいことである。たった6年だけの歳月が清光館の亭主を海に片付け,残された妻は子供も引き取れないままに奉公に行き,二人の子供は引き取られて所在もはっきりとはしない。海辺の寒村のこの出来事に柳田はただ呆然とするばかりだった。その哀しい運命を確かめるためにここにまた自分は来たのだろうかと彼は自分に問いかけて言った。
「一つにはあの時は月夜の力であったかも知れぬ。あるいは女ばかりで踊るこの辺の盆踊りが,特に昔からああいう感じを抱かしめるように,仕組まれてあったのかも知れない。」あの美しすぎる月夜の,夢のような静かな盆踊りはこの哀しい清光館の運命をすでに物語っていたのかと思わなければ言葉にもならなかった。

やがて6年前に聞き取れなかった,あの盆踊りの歌の歌詞はなんだったであろう。

なにヤとやーれ
なにヤとなされのう

何なりとしてもいいよ
どうなりともされるがよい

女が男にこう呟くのです。

わたしのことをどうしてもよいのよ。
あなたの好きにしていいの

お盆の送りに,精霊達に語られるこの「しょんがえ」の言葉は今日の今夜の満月の夜に繰り返す波のように聞こえてきただろう。そして何年も何十年も何百年もこの村に女達によって歌い継がれてきただろう。柳田は6年前と同じ月夜に,石垣だけとなった清光館跡に佇み,こう締めくくった。
「この短すぎる歌詞は羞や批判の煩わしい世間から,ただ遁れて快楽すべしというだけの,浅はかな歓喜ばかりでもなかった。忘れても忘れきれない常の日のさまざまな実験(労働や人の営み),遣瀬(やるせ)ない生存の痛苦,どんなに働いてもなお追ってくる災厄,いかに愛してもたちまち催す別離」

なにヤとやーれ
なにヤとなされのう


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