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さくらの開花寸前『石川善助追悼文』

さかぽ道0419  4/18のさんぽ道
林のへり林のへり
ふきのとうふきのとう

 やっとさくらが開花寸前というところです。こんなに待たされると満開になったときの喜びはひとしおでしょう。それもよいものです。今夜は今年のさくらの撮影の計画を立てます。少ない休みと月齢と天気予報の条件をそろえなくてはいけません。でも楽しみでやるのですから,それもまたよいものです。
 今夜は静かに,「そろそろ咲こうか」「そうだね」というさくらたちの声を聞きながら寝ます。
 おやすみなさい。

今日の本
『石川善助追悼文』宮沢賢治


石川さんを失つてすでに百日を経た。

 いまはもう東京の夜の光の澱〔をり〕も、北日本を覆ふ雨の雲も、曾つてこの人が情熱と憤懣を載せて、その上を奔つた北太平洋もみなこの詩人の墓となつた。そこでは分つことも劃ることもいらない、たゞ洞然たる真空の構成、永久の墳墓、永久の故郷である。しかもこの詩人の墓銘はうつくしい。一頃に七度衣を更へる水平線も、仙台の町裏の暮あいに、円く手をつないで唱ふ童子らの声も、凡そこの人か高邁の眉をあげた処、清澄の心耳を停めた処、そこにわれらはこの人の墓銘を読む。(後略)




 わたしはこの文を石川善助の死後刊行された『鴉射亭随筆』(復刻版)という本で読みました。この格調高き文は,仏心は万物に宿るという点では,スピノザ的な汎神論に似ています。つまりこの世のすべてのものは生まれるべくして生まれ,この世に存在しているものはすべて意義があるということでしょう。この微細な部分すべてに統一性を求める場合にはどうしても,部分そのものに等質な意味をはめこんでいないと理論はまとまらなくなるでしょう。賢治はこの汎神論によって美しすぎる自然をまとめあげることで落ち着いたのだと思います。確かに,このような汎神論にはそれなりの魅力はあります。この部分に等質を求めてしまう「誘惑」こそ,サドがスキャンダラスに告発した自然へのアンチテーゼだったのです。

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