FC2ブログ

封印された時間-百姓一揆覚書き4-

DSC_4618-2s.jpg
時行神社落日

1865(慶応元)年佐沼地方は水害,冷害,旱魃等の天災つづき,大凶作となる。夏綿入れを着る。○6月3日より百姓一揆起こり,一万六千人ほど高清水,力石に来たがなだめられ退散。○12月23日封内五十九万石余の水旱害の損害を幕府に報告。
1866(慶応二)年七月。栗原郡若柳町元町および一迫・ニ迫・三迫の農民,凶作と重税に苦しみ,百姓一揆を起こす。
1867(慶応三)年佐沼地方旱魃のち水害。
1868(慶応四,明治元)年六月洪水。○十二月四日米川狼河原で百姓一揆。○十月二十日西磐井で百姓一揆。○旱魃で大不作。
1869(明治二)年一月十八日新田村から百姓一揆が起こる。○永井村より百姓一揆起こる。
○餓死者多数。○一月二十六日米谷の農民百人,狼河原に行き,同地の三百人と合流し米谷に押し入る。○冷害で大凶作。
1870(明治三)年物価高騰。人々は沼川の河骨(かとう)やわらびの根を掘り,松皮餅を食用とする。○十一月東磐井郡で百姓一揆。○十二月栗原郡宮沢村で百姓一揆。

 仙台藩は戊辰の役に敗れ,二十九万石への減封。武士も職を失い,帰農したが折からの大凶作続き。農民も武士も期待をもって呼んだ御一新という明治の幕開けは地獄の様相と化していました。次から次へと餓死者が続き,生き残った者は一揆へと進み世の中の建て直しを図りました。新しい時代はまた多くの犠牲を払いました。

DSC_4798-2s.jpg
夕暮れの道

農民は漬け物も漬けられなくなっていました。塩も配給が滞り,出来た野菜も現物を以て納税に当てられる始末でした。
もともと百姓一揆を起こすことは死罪になることでしたから,その覚悟を以て命を捨てる「渴命書」という願いを藩に出しました。「乍恐(おそれながら)」で始まる困窮の極みの最後の叫びの願書です。百姓だけではありません。藩がつぶれ帰農した武士は大凶作で餓死し,遁走した武士達は身を隠す間もなく,捕らえられ処罰されました。土地にへばりつくしかない農民は早く死ぬか,生き残るために直訴するか(一人では世の中は変わらない)組んで一揆を起こすかしかありません。
仙台藩お目付役渋川助太夫の「日新録」には当時の混乱した世の中が描かれています。
その中の明治二年一月二十一日の記録を覚書2で載せました。
明治二己巳 (きし)年一月廿一日
一 登米七ヶ村嵯峨立村過ル七日頃より集会、八日夜同村組頭甚左エ門所江押かケ少々乱防、同村熊野山集会、四番御番組神山直之助鎮撫、十四日又以集会

一 同郡上沼村百姓四五十人十三日夜同村八幡山へ集会、十四日引取

一 佐沼七ヶ村之内新田村十八日甚敷起立ツ由
  右ニ付早速和賀之助出発申□、今廿一日晩立
  廿九日追々承ル、廿二日昼頃鎮定ス○佐沼本郷大嶽山屯集佐沼十七ヶ村不残寄□由
  新田上村大町内蔵人用人高橋清右エ門と申者、百姓ナレトモ当座抱、右者主党致□由主党ノ者猪三郎
特にこの記述の中の後半「一 佐沼七ヶ村之内新田村十八日甚敷起立ツ由
  右ニ付早速和賀之助出発申□、今廿一日晩立
  廿九日追々承ル、廿二日昼頃鎮定ス○佐沼本郷大嶽山屯集佐沼十七ヶ村不残寄□由
  新田上村大町内蔵人用人高橋清右エ門と申者、百姓ナレトモ当座抱、右者主党致□由主党ノ者猪三郎」に注目しています。なぜならこの百姓一揆は従来の押入,強奪,脅迫,打ち壊しとは全く違った実にスマートで民主的な一揆だったからです。困窮の極みにこれだけの真の効果ある一揆を行えた新田村の「猪三郎」(本当は勝三郎)という人物に興味を持ちました。

南方の大嶽山に数千人集まり,話し合い,勝三郎がまとめた願い書があります。「渴命書」です。「渴命書」とはまさに命を捨てる覚悟の願い書のことです。今日はその前文を載せます。解釈はまた別の機会にします。
「渴命書」
此度屋形様御事東京御慎被為有候由承知仕候、拙者共ニても甚歎ケ敷奉存候、相成丈ハ東京迄拙者共御迎ニ罷登り郡中是非御本領御安堵ニ奉為致上度念願ニ御座候間屋形様より永年来の御厚恩を奉報上度勘弁ニ而郡中壹統佐沼大嶽山へ寄合相立思寄吟味仕候處小昧一統同意ニ御座候間此段如願被成下度御披露奉願上候、且郡中一統ニテ此度之寄合序を以直々出立登(ママ)京仕度勘弁ニ御座候間早速御下知被成下度如此ニ奉願候事  乍恐一書を以て奉願上候御事



にほんブログ村 写真ブログ ネイチャーフォトへ
にほんブログ村
関連記事

コメント

非公開コメント