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憑かれるということ

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ハクチョウの吐く息は白く

実際「憑(つ)かれた者のように」と言う如く,憑かれるとは尋常ではない状態を指すのだろう。
鳥たちが北に帰る頃になると私は焦りにも似た気持ちになる。別れの時は誰にでも来るし何か切ない気持ちにもなる。渡り鳥が北へ帰ると沼はしーんとして静かになるがそれがもう取り返しがつかない大きな別れのようで悲しくなる。夜騒いでいた鳥たちの声が全くしなくなると沈黙の夜は辛くも感じられる。夜がうんと厚く深くなったように感じてしまう。昨日までいた鳥たちが一夜にしてすべて去って行き,沈黙と化した沼になるのです。去っていなくなる悲しみや不在の悲しみ。今の時期はそんなことを考える。

私は実際憑かれているのだと思うところがある。特にいなくなったり無くなってしまうものに対する畏れが強いのかもしれない。だから写真を撮って今の瞬間の美しさをどうしても残したいと思っているのかもしれない。刻一刻が美しさをつくり出す光の饗宴に憑かれているのだろうと思う。朝の光の変化は実に美しい。自然から与えられる美しさはこの上もなく尊いものだと思う。

宮沢賢治は自然からもたらされるイメージを実に的確に言った。『農民芸術概論綱要』の一節、「まづもろともにかがやく宇宙の微塵となりて無方の空にちらばらう」と。これは自然に究極的に同化したいという意味に感じられる。同時に自分という者が爆発して木っ端微塵になり無となることも意味している。これ以上の自然への讃歌はないであろう。この態度は自分ではない者になろうとすることに憑かれた態度と見ていいと思う。ひたすらに自分をすり減らして行き,果てには相手と同化するまで行ってしまおうという考えだ。自然を理解することは少なくても自分のフィルターを通して理解することだからすべてが我田引水的になる。つまり曲解する。先入観でものを見る。勝手に世界を理解する。賢治はそうした認識のにごり自体がかえって自然の理解を遠ざけると考えた。真に理解するとはそのまま対象になることだと突き詰めていった。自分の存在を消した時に初めて自然の語ろうとする奥義が開かれるとも感じていた。全く我意を消し去った地点に行くことで自然は記述可能となるなのだと信じていた。この二律背反のきしみに飛躍の着火点を見い出そうとしていた。

こう考えると実に憑かれるということは正直な感情を基礎としている。真の信頼を見いだすことは相手自身になればいい。むしろ相手自身になることでしか自分の認識では満足しない。これが、「まづもろともにかがやく宇宙の微塵となりて無方の空にちらばらう」の意味だと思われる。


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