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銀河鉄道の夜―賢治の認識論

北山崎-2s
夜の北山崎  イカ釣り船の明るい光が海の暗い水面に映えます。

賢治の「銀河鉄道の夜」のお話を始めて4回目になります。
しかし、なかなか思い通りに核心に辿り着けません。今日は最も手強いと思う部分です。一緒に銀河鉄道に乗っていたカンパネルラが突然にいなくなる場面です。ジョバンニが「カムパネルラ、僕たち一諸に行かうねえ」と言って振り返った時にカンパネルラは消えてしまいます。そしてカンパネルラが座っていたその席に「黒い大きな帽子をかぶった青白い顔の瘠せた大人がやさしくわらって大きな一冊の本を持ってい」たのです。この部分は初期形から残っていた部分です。不思議なのはこの黒い大きな帽子をかぶった青白い顔の瘠せた大人が語り聞かせる内容です。その部分を引用してみます。
そしてみんながカムパネルラだ。
(中略)一しんに勉強しなけぁいけない。おまへは化学をならったらう。水は酸素と水素からできてゐるといふことを知ってゐる。いまはだれだってそれを疑やしない。実験して見るとほんたうにさうなんだから。
けれども昔はそれを水銀と塩でできてゐると云ったり、水銀と硫黄でできてゐると云ったりいろいろ議論したのだ。みんながめいめいじぶんの神さまがほんたうの神さまだといふだらう、けれどもお互ほかの神さまを信ずる人たちのしたことでも涙がこぼれるだらう。それからぼくたちの心がいゝとかわるいとか議論するだらう。そして勝負がつかないだらう。けれどももしおまへがほんたうに勉強して実験でちゃんとほんたうの考えとうその考えを分けてしまへばその実験の方法さえへまればもう信仰も化学と同じやになる。


実験による証明が大切だと強調しています。今でこそ水は水素と酸素でできていると分かりますが、昔は様々な呼び方をしてきて、互いに自分の考えが正しいと論争してきました。どちらが正しいかは後世になって実験と証明によって明らかになります。だからしっかり勉強することで正しいことと間違いであることを区別できるようになることが大切だよと言っているのです。この考え方だと正しいことと間違いであるということの区別を実験によって知ることで信仰さえも科学的に証明されると主張しています。

このような考え方は賢治が科学的な実験を基本として思考や感情、信仰等を再読み込みさせ、ついには科学も芸術も統合させていこうとする前提があると思われます。ここで29歳の賢治がしきりに口にした「われわれの感ずるそのほかの空間といふやうなことについてどうもおかしな感じ」とか「或る心理学的な仕事の仕度に」とか『春と修羅』の序文で書いたような「歴史や宗教の位置を全く変換しようと企画」することを目論んでいるのはこの方法によってではないかと思われます。
そうすると『春と修羅』の果てにある世界の構築は『春と修羅』第二集や大作『小岩井農場』の記述の過程で実験され続けているのでは・・・と考えられます。
『銀河鉄道の夜』の「大きな一冊の本を持っている黒い大きな帽子をかぶった青白い顔の瘠せた大人」の話には続きがあるので読んで見ましょう。

異途への旅立ち 094-2s
朝の一番列車
八戸線 宿戸-陸中八木


けれども、ね、ちょっとこの本をごらん、いいかい、これは地理と歴史の辞典だよ。この本のこの頁はね、紀元前二千二百年の地理と歴史が書いてある。よくごらん紀元前二千二百年のことでないよ、紀元前二千二百年のころにみんなが考へてゐた地理と歴史といふものが書いてある。だからこの頁一つが一冊の地歴の本にあたるんだ。いゝかい、そしてこの中に書いてあることは紀元前二千二百年ころにはたいてい本統だ。さがすと証拠もぞくぞく出てゐる。けれどもそれが少しどうかなと斯う考へだしてごらん、そら、それは次の頁だよ。紀元前一千年だいぶ、地理も歴史も変ってるだらう。このときは斯うなのだ。変な顔をしてはいけない。ぼくたちはぼくたちのからだだって考だって天の川だって汽車だってたゝさう感じてゐるのなんだから、


この頁はね、紀元前二千二百年の地理と歴史が書いてある。
よくごらん紀元前二千二百年のことでないよ、
紀元前二千二百年のころにみんなが考へてゐた地理と歴史といふものが書いてある。

この文章は何を言っているのか難しいですが、「紀元前二千二百年のころに(現代の)みんなが考へてゐた地理と歴史といふものが書いてある」のであって、「紀元前二千二百年にあったことの地理と歴史」と一致するわけではないと言っているのでしょう。現代人によって読み換えられた、つまり解釈された「紀元前二千二百年の地理と歴史」なのだと強調しているようです。解釈され、表現された歴史や地理はそれを表現した人の考え方であって「ほんとうは」分からないという意味にも感じます。だから鵜呑みにせずに更に勉強して、正しいものを見つける努力をしなくてはいけないということです。この方向性が一緒であれば、カンパネルラとも一緒に歩んでいけるんだよ。と言っているようです。

DSC_8199-2s.jpg
-9℃の朝 結局この日が今シーズンで最も寒い朝となりました。2/13の日でした。

もう飽きてきましたが、「大きな一冊の本を持っている黒い大きな帽子をかぶった青白い顔の瘠せた大人」はジョバンニに更に手品のような訳の分からないことを言います。今日の最後ですのでなんとか付き合ってください。引用します。
そのひとは指を一本あげてしづかにそれをおろしました。するとジョバンニは自分といふものがじぶんの考といへものが、汽車やその学者や天の川やみんないっしょにぽかっと光ってしぃんとなくなってぽかっとともってまたなくなってそしてその一つがぽかっとともるとあらゆる広い世界ががらんとひらけあらゆる歴史がそなわりすっと消えるともうがらんとしたたゞもうそれっきりになってしまふのを見ました。だんだんそれが早くなってまもなくすっかりもとのとほりになりました。

賢治独特の明滅を繰り返すという描写ですが、はっきり言ってさっぱり分かりませんね。私はこのような見え方や考え方が賢治独特の認識論だと考えています。つまり今、自分が堆積した地層が見える露頭、崖下にいると思ってください。露出して横縞模様に見える地層が見えています。その時代の姿をそのままに現在にむき出しになっているわけです。もう何百万年前から最近の地層まですべての堆積した時間と岩石が自分の目の前に同時に見えている状態。この状態はわれわれの通常使っている時間の感覚過去から現在へと続き、未来へとつながる一本の線という時間のイメージと全く違うものだということです。賢治は現代にいながら一瞬で第三紀へ飛び、また現代に戻りすぐ中畳紀に飛ぶ視点を持っていたのだと考えられないでしょうか。まとめると賢治にとっては時間を遡ったりせず瞬間的に「多世界にシフトする」ことができた稀な人であったと思うのです。


この話はつづきます


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