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万引き家族を観て

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岩手山を咲く

映画「万引き家族」を観た
宮本常一の「忘れられた日本人」を思い出した
言わば,現代の「忘れられた日本人」を活写したというのが「万引き家族」を観た最初の印象だった。
この世の辺境に連れて行ってくれる映画もまた必要なものだ。
網野善彦が教科書に載った「忘れられた日本人」の中の「梶田富五郎翁」について筑摩書房から何か書けと執筆依頼を受けた。宮本常一が村々を回り,大切な古文書等を集めて歩いた。もう忘れるくらい預かり,返して歩いたのが網野善彦自身だった。そんな経緯もあっての執筆依頼だったと思う。執筆の際もう一度「忘れられた日本人」を読み直した網野善彦は歴史の底に埋もれている人々に歴史の価値を再発見した。システムという枠,効率的な社会の枠から逃(のが)れ,流浪する民の世界の価値だ。
例えば「梶田富五郎翁」では梶田翁が子どもだった頃,メシモライという形で漁の手伝いをしていたという。学校などは家の仕事が終わってからたまに行くものだった。学校に行かないものがたくさんいた。
浅藻ちう所は元来天道法師の森の中で人が住んではならんことになっておった。このあたりではそういうところをシゲというてなあ,あすこは天道シゲじゃけに住んではならん,けがれるようなことをしてはならんと,土地の人はずいぶんおそれておった。
そういうところへどうして住むことになったかといいなさるんか。
対馬という所は侍の多いところで,どの村でもなかなかしきたりがやかましい。わしら漁師のような礼儀も作法も知らんものは,とてもつきあいできるもんじゃあない。それでいっそ神様のバチが当たってもかまわんけえ,まあめんめら同士(銘々同士)気の合うたものだけてくらすのがよかろうちゅうて浅藻へ納屋を建てることになったんじゃいの。
侍の多い対馬では,しきたりがやかましく,住みづらいのでなんとか気の合う者同士が立ち入ることが禁じられていた神域であるシゲに逃げ込んでこっそりと住むようになった。反対に見れば,逃げ込むことの出来る神様の森もあって,その土地に入れば敢えて追うことはせず,治外法権となり,しきたりも権力も懲罰も無力化される空間が存在していたということだ。とんでもないことをしでかした奴が身を隠せる受け皿がいつの時代も存在しているものです。治外法権の場は山に逃げ込むことで成立することもありました。それが神隠しと称された時もあったと思われます。網野はそうした裏にあって,階級社会を支えていた人々を鋭くあぶりだした「忘れられた日本人」の人々の意味を再発見したのでした。それをアジールと言ったり無縁・公界・楽とも言っています。

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為内の桜

「万引き家族」は敢えて法の隙間で,法をすり抜ける形で流浪する家族をあぶり出したのです。江戸時代,借金が返せなくなって人質として貸し主の家で奉公する子どもや娘。借金のために逃散する農民,水吞に身分を落とす者。いつの時代も流浪を強いられる人がいます。「万引き家族」を観ると,一生懸命に生きる家族の姿に演技であっても心打たれます。宮本常一の「忘れられた日本人」が名著と言われるのは何故でしょう。文字を書かなかった時代,教育制度が統一されていなかったプレ現代を歴史的に残しておくことは貴重です。

私はそうした時代の裏にいるが確かに存在している人や出来事を「新・逃走論」という形で以前にこのブログで書きました。
サンカ,走り,逃散,一揆,山人,神隠しといった社会の枠,システムから外れた部分に「万引き家族」のテーマがあるように思います。鉄道が敷かれ,統制が行き渡り,ことごとく社会は均一化されていきました。戦前の日本の姿を見事なまでに記録した宮本の鋭いまなざしは無文字文化の熟成を高らかに歌っていたとも言えるでしょう。そして現代では「万引き家族」が宮本の視線を受け継いでいると感じました。

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