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夜の写真闇の文学2―「春と修羅」―

栗駒星814 017-2gss
晴れゆく

5月27日の同じタイトルの記事で書いた続きです。
宮沢賢治の詩集「春と修羅」をどうにかして理解したいと思いながら探って来てはいますがさっぱり糸口が見えてこないのです。早速「春と修羅」の冒頭を飾る「屈折率」を読んでみましょう。
屈折率
七つ森のこつちのひとつが
水の中よりもつと明るく
そしてたいへん巨きいのに
わたくしはでこぼこ凍つたみちをふみ
このでこぼこの雪をふみ
向ふの縮れた亜鉛(あえん)の雲へ
陰気な郵便脚夫(きやくふ)のやうに
(またアラツディン、洋燈(ラムプ)とり)

急がなければならないのか
これを字面(じづら)の通りに読んでいきます。合いの手のように()書きで補足説明を入れます。《七つ森のこつちのひとつが水の中よりもつと明るくそしてたいへん巨きいのに(そっちの方に行きたいのに)わたくしはでこぼこ凍つたみちをふみ,このでこぼこの雪をふみ(この思いとは反対に)向ふの縮れた亜鉛(あえん)の雲へ(あの暗くにび色の不安を感じさせる雲の方へ,まるで)陰気な郵便脚夫(きやくふ)のやうに(また)(またアラツディン、洋燈(ラムプ)とり)(アラジンの魔法のランプのように,何かを探す旅に) 急がなければならないのか》という感じでしょうか。実にそのまんまです。あっちに行きたいのにこっちなのだ。それもひどい道をてくてくと一歩一歩あるいていかなければならないのだ。私はこのようなな孤独な旅に出るのだという意味に理解できます。詩集の冒頭で旅立ちが宣言されます。しかしです。なぜこの詩が「旅立ち」ではなくて「屈折率」という題名なのでしょうか。屈折しているのは自分なのですという意味なのか。世界そのものの見え方がある程度屈折した光で私たちが見ている,暗にこの屈折した光で見た世界に対して本当の見方をしたいという意味にも捉えることができます。
当然私は後者の考え方です。今見えている世界,そしてその見えている世界を見ている自分の映像は正しいのかという自問があります。そのようなことを感じさせる言葉が「水の中よりもつと明るく/そしてたいへん巨きいのに」 という表現です。水の中での屈折と大気中での光の屈折の違いを表現しています。そして大気中でのこの屈折は水の中においての光の屈折よりずっと明るく大きく見えているという比較をしているのです。
このようなことから「単なる孤独な旅立ち」に見えたこの詩は科学的な見方を取り混ぜた新たな認識論への旅立ちであるとも考えられるのではないでしょうか。

先回私は梶井基次郎の「闇への書」から人間の認識の不思議な飛躍をみました。もう一度引用してみます。
私はある不思議な現象を發見した。それはそれらの輕い雲の現はれて來る來方(きかた)だつた。それは山と空とが噛み合つてゐる線を直ちに視界にはいつて來るのではなかつた。彼等の現はれるのはその線からかなり距つたところからで、恰度燒きつけた寫眞を藥のはいつたバツトへ投げ込んで影像があらはれて來るやうな工合に出て來るのだつた。私はそれが不思議でならなかつた。
空は濃い菫色をしてゐた。此の季節のこの色は秋のやうに透き通つてはゐない。私の想像はその色が暗示する測り知られない深みへ深みへのぼつて行つた。そのとたん私は心に鈍い衝撃をうけた。さきの疑惑が破れ、ある啓示が私を通り拔けたのを感じた。
闇だ! 闇だ! この光りに横溢した空間はまやかしだ。
青すぎる空から現像する写真のように滲み出してそしてやがてはっきりと形を作っていく雲。ただの青と見えていたまやかし。そしてそのからくり。

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林の奥 重なり合うことで見えていないものが不安なのか,それとも重なり合いながらこちらの視線に進んでくるものに期待するのか

正しい見え方とは何か。梶井自身も一石を投じています。景色の中で聞こえている音についてはどうでしょう。「音といふものは、それが遠くなり杳(はる)かになると共に、カスタネツトの音も車の轣轆(れきろく)も、人の話聲も、なにもかもが音色を同じくしてゆく。其處では健全な聽覺でも錯覺にひきこまれ、遠近法を失つてしまふ。そしてはたと辺りに氣がついて見れば、其處が既に今まで音の背景としてゐた靜けさといふ渺々とした海だといふことに氣がつく。」音が遠くなるに従い,音の特色は平滑化されて遠近法を失い,はたと気付くともう静けさという沈黙に音は沈んでいっているわけです。

今ここで自分が自然の中に居て何かの音が聞こえてきたとしましょう。その音が一体何の音なのか,どこから出ている音なのか。その音を分析しようと耳を傾け,視力を働かせます。つまり理解は出てきた音という情報を視力で更に関連づけて対象を理解しようとしています。そして音の対象の場所が分かり,同時に見ることで,「ああ,水が流れている音だったんだ」と認識を落ち着かせています。このようなことは私たちが生活している世界ではごくありふれたことです。

DSC_0203-2gs.jpg
田毎の星  反射するものを見ることは世界を角度で理解しようとしていること

「春と修羅」は私たちに普通に見えているものとその媒介となっている光,湿度,雲という気象条件を関数化しながら記述するというまれな方法を取っていることに気付くと思います。そして「春と修羅」の冒頭は
「屈折率」1922/01/06
「くらかけの雪」1922/01/06
「日輪と太市」1922/01/09
「 丘の眩惑」 1922/01/12
「カーバイト倉庫」 1922/01/12
「 コバルト山地」 1922/01/22
「 ぬすびと」 1922/03/02
「恋と病熱」1922/03/20と8編続きます。そしていよいよ春の始まりの本編「春と修羅 (mental sketch modified)」 《1922/04/08》 となっていきます。


この記事はまたつづきます。


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