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詩の行方-宮沢賢治とアルノー・ホルツ-

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一閃

たしか賢治の本棚にはアルノー・ホルツの本があり,詩作ではホルツの刻一刻法の影響を受けたとどこかで読んだなと記憶していた。そこでそのようなことを言及した本が梅津時比古の「セロ弾きのゴーシュの音楽論」だと思い,本棚から持ってきて探してみたが見つけることはできなかった。

そのアルノー・ホルツの「ファンタズス」(1898)を読んでみた。
     夜

 窓の前の楓がさやぐ
葉から露が芝草の中に輝き始める
  と 私の胸は
    高鳴る

     夜
読んで見ると抒情詩です。こうしたホルツの手法は徹底自然主義と名付けられています。
まず言葉の配置は中央揃えです。言葉はまず中央揃えにすることで空間の中にぽつねんと置かれ,視覚的な言葉として読まれる者の目に入ってきます。それは対象を浮き立たせて,この世での位置情報が付与されます。そして位置情報が定まると置かれた言葉から運命付けられように意味が生まれてくるという印象があります。白い紙に書かれた詩は世界の座標軸と一致するように置かれるのです。ですから一つの詩は真っ白な紙の一頁の中に一つしか書かれません。これがまず徹底自然主義のホルツの新しいスタイルです。
次に視点です。これは対象をよく観察してというよりは対象と同化する方向性の中で感覚的に言葉化したり,表音化していくという点で古典的な写実主義から抜け出ていると「ドイツ徹底自然主義作品集」の解説者は言います。そしてこの徹底自然主義の取ったスタイルが「刻一刻」技法です。「時々刻々,時間と空間を記録」すると説明されます。そしてその対象のとらえ方として「対象に鼻面(はなづら)を押し当ててよく観察してというゾラのような自然主義と対立し,対象を吸収・同化する中で言葉に置き換えていったり,表音化していく」という点で新しいのです。
三つめの特徴は語り手の存在についてです。語り手と言われる存在が排除される傾向にあるという点です。語り手という第三者を介在させて世界を説明的に述べたり,主観が入ってくることを避けようとします。より世界をダイレクトに伝えるためです。勝手に語り手が世界を歪めず,無垢で純粋な形で言葉を生成すること。まるで人間がカメラの眼を持って客観的に,中立的に自然の再現を行なわなければいけないということを示唆しているようです。


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隠れていく木星

どうでしょう。賢治の「春と修羅」がこのホルツの手法と似通っていると思われませんか。自然の再現に適した技法として無垢で,無媒体で直接的で濁りのない描写。これこそ賢治が目指していた明滅するものの言語化を可能とする方法ではないでしょうか。しかし,いくら無垢で,無媒体で直接的で濁りのない描写だとしても,もう対象が決められカメラの位置や写野や絞りでもう限定されているわけです。書く者の主観に基づいてすでに対象やアングルや描写は決められているわけです。それを賢治は「青い照明」と言います。やはり生き物としての人間は青い照明というフィルターを使いながら自然を見るしかない。眼という感覚器官も全能ではないのですが,使い方次第では正確な自然再現ができるはずだ。そして正確な自然再現を可能とする言語化を行なえば「やがて心理学的,認識論的な変革もできる」。ヘッケル博士に応える壮大な実験ですね。


ホルツと賢治という二人の呼応は何よりも同時代の人であったと言えましょう。進化論が,精神分析論が,物理学が,天文学が新しい視点を出してくるこの世紀末という時代に誰もが科学性や客観性を土台とした世界構築を目論んでいたはずです。



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