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野ざらしの美

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曼荼羅図 宝暦三年(1753)九月一日 願主 阿闍梨 明堂

石碑を調べてしばらく経つが,感動する素晴らしい石碑もある。
そんな心ゆさぶられる石碑に出会った時,知らず知らずのうちに涙が滲んだりする。全身が戦慄を覚えるほどの感動だ。「たかが石碑」と思われるかもしれないが,「たかが」と括っている人には見えてこない世界がある。ありのままに受け止められる人のために世界は見事に裏切り続けてくれるのだ。
美術館で値が張った作品を見た時の感動ではなく,この石碑をつくった人の思いが時空間を飛び越えてダイレクトに私の中に入ってくる。どこか大変な化石を発見したような,僥倖と恍惚に似ているかもしれない。
人はせいぜい生きて八十年。どんなに自分のことを声高に伝えても伝え聞いた者もいずれこの世から姿を消す。だからと言って胸に迫る思いをあきらめられるものでもない。その強い祈りは表現できる。石にその思いを永遠を刻むことだ。

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宝暦三年供養碑  倒れて半分地中に埋まっていた

この石碑が建った宝暦三年の前年にこの地方では麻疹(はしか)が流行していました。たくさんの女(おんな)子ども,男が死んだと思われます。その供養碑です。郷土史にも書かれていませんが甚大な被害だったと思われます。というのも宝暦六年あたりの「人数改帳(にんずうあらためちょう)」(現在での戸籍のようなもの)を見ると多くの人が他の家に寄宿している事実が書かれているのです。
曹洞宗慈眼寺
一、水呑甚内 四十一 一、女房三十九一、一、男子太郎 八つ
一、親丹助  六十一 一、女房 五十九 一、
  外
水呑甚内
一、 弟弥五左衞門 二十七
宝暦五年正月より同村御百姓安平方江
向ニケ年の年季質物に指置申候

高 一貫四十八文 外一貫十五文 新田
特に下線部を見ると水吞百姓の甚内の弟弥五左衞門(二十七歳)が宝暦五年正月より同じ村の百姓安平の家へ向こうニ年間にわたり,年季質物として奉公させると書かれています。こうした生活が立ちゆかなくなった家では労働力として,家族が質物となって他の家に奉公せざるを得なくなったのです。このような記述が多くなるのがこの宝暦始めの時期です。宝暦五年の大飢饉の影響だとも思われますが,それ以前にこのような人の移動が始まっています。これは藩の大きな政策の変化によるものなのか,宝暦二年の麻疹(はしか)の大流行によるものかは分かりませんがたくさんの人が亡くなった供養として,この宝暦三年の石碑は建てられたと考えられます。

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宝暦三年供養碑アップ

この石碑は坂戸山へ登る坂の途中のケヤキの大木の下に倒れて半分土の中に埋もれていました。掘り起こして,曼荼羅と碑文を確かめたとき,どっと私の身体の中に何かが入ってきました。この石碑が建てられざるを得なかった事実と供養する人の強い思いです。266年前のことですが私の身体の中にありありと当時の悲しい光景とそこから進もうとする願いが甦ってきました。
もの言わぬ石に刻まれた曼荼羅と碑文から読み取れる事実の重さを噛みしめています。


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