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新・遠野物語-蛇神の行方2-

5月栗駒 571s
蛇の絵馬

先回の記事で私は「己巳(きし)供養塔」を取り上げて蛇を信仰の対象とする石碑について述べた。
蛇を信仰の対象とする石碑は「己巳供養塔」だけではなく「蛇神」「蛇王権現」また蛇を使いめとする「弁財天」信仰という形で古くから広く信仰されてきた。特に「中田町上沼大泉長承寺境内 己巳供養碑 永仁二年 1294年」は驚くほど古く,登米市中田町では板碑以外の石碑では最も古いとされる石碑がこの「己巳供養塔」です。しかしもう享保十七年には「 庚申・己巳塔」のように庚申信仰と己巳信仰が合体された形で石碑が建てられ,寛延二年(1749)に一気に増え,庚申塔が急激に多くなっていきます。
石碑記録からもう一度抜き出してみましょう。

653 千厩町奥玉 庚申・己巳塔 享保十七年 1732
646 石ノ森小倉天神境内 奉己巳供養塔 寛延二年 1749
647 石ノ森八幡神社境内 己巳供養塔 寛延二年 1749
648 石ノ森蓬田蘭塔場 奉己巳供養 寛延二年 1749
655 花泉町金沢 己巳供養 宝暦四年 1754

寛延二年に「己巳供養塔」が三基も集中しているのは「寛延二年が己巳の年だった」という当たり年であったからでしょう。
民間信仰があまりに忙しく多岐にわたっては大変です。己巳の日も供養し,また庚申の日も供養するという二重の手間を省く動きがあり,己巳供養は流行ってきた庚申供養にやがて吸収されていったのではと仮説を立ててみました。
この二つの信仰は若干似ている部分もあります。

①約60日毎の祭日になること
②日待ち信仰(庚申の勤行は仕事が終わった夜に行われること)
③種々の大きな効験がもたらされること
そして何よりも大切なことは
④庚申信仰の三尸(さんし)(身体の中にいる虫)と己巳供養の「蛇」とがイメージとして結びついたのではないか。
そう考えています。

こうした考え方で当時の社会の流行の庚申信仰が台頭し始め,やがて己巳供養を包括吸収していったのではないか。
この登米市には意外と「二十三夜待ち」などの月待ち信仰の石碑は殆ど無く,これらの要素も庚申にまとめられていき一括して供養されてきたとも考えられます。ここで出てきた庚申塔を見てみましょう。

ことは入り
絵で彫られた庚申塔 本尊は青面金剛童子

碑面上の月と太陽は月が沈み,日が出るまで。つまり「一晩中」という意です。また,本尊の青面金剛童子は邪鬼を踏み,庚申の夜に自分の罪を天帝に知らせようとする身体の中に居る「悪い蟲」を出さないために夜っぴて眠らず皆で集まって読経したり,会食直会(なおらい)していたようです。だから碑面下の「見ザル 言わザル 聞かザル」の三猿は「私の罪を見ないで下さい。言わないで下さい。聞かないで下さい。」という意味です。

仏像図彙で確かめましょう。
青面金剛
庚申信仰の本尊青面金剛童子

庚申の説明が書いてありますが分かりやすく説明した文を引用してみます。
三尸(さんし)とは、道教に由来するとされる人間の体内にいると考えられていた虫。三虫(さんちゅう)三彭(さんほう)伏尸(ふくし)尸虫(しちゅう)尸鬼(しき)尸彭(しほう)ともいう。

60日に一度めぐってくる庚申(こうしん)の日に眠ると、この三尸が人間の体から抜け出し天帝にその宿主の罪悪を告げ、その人間の寿命を縮めると言い伝えられ、そこから、庚申の夜は眠らずに過ごすという風習が行われた。一人では夜あかしをして過ごすことは難しいことから、庚申待(こうしんまち)の行事がおこなわれる。

日本では平安時代に貴族の間で始まり、民間では江戸時代に入ってから地域で庚申講(こうしんこう)とよばれる集まりをつくり、会場を決めて集団で庚申待をする風習がひろまった。

道教では人間に欲望を起こさせたり寿命を縮めさせるところから、仙人となる上で体内から排除すべき存在としてこれを挙げている。by Wiki
本尊の青面金剛童子が持っている縄はなんとなく私には「蛇」に見えてしまいます。こうした共通性が庚申信仰と己巳信仰を合体させることになったのではないでしょうか。そうして「蛇」は一旦姿を隠したかのように思われましたが,やがて室町時代辺りから始まる七福神信仰の「弁財天」の中で一層明確に,弁財天の垂迹が蛇という形ですぐに脚光を浴び,以前より大きく「蛇」の出番となるのです。

DSC_9627s147s-2-2.jpg
右上に「蛇神」と彫られています。場所は新田駒形神社境内に立てられています。碑面全体に蛇が大きく踊っている絵は生き生きとして素晴らしい彫りです。
拡大して下も見ましょう。
DSC_9627s147s-2.jpg
「蛇神」下の部分 生き生きとした蛇が身体をくねらせています。

遠野物語18から,蛇を殺したために一族がすべて没落するという話まであります。
早速読んで見ましょう。
18 ザシキワラシ又女の児なることあり。
同じ山口なる旧家にて山口孫左衛門と云ふ家には、童女の神二人いませりといふこと久しく言伝へたりしが、或年同じ村の何某と云ふ男、町より帰るとて留場の橋のほとりにて見馴れざる二人のよき娘に逢へり。物思はしき様子にて此方に来る。お前たちはどこから来たと問へば、おら山口の孫左衛門が処から来たと答ふ。此から何処へ行くのかと聞けば、それの村の何某が家にと答ふ。その何某は稍􀀀離れたる村にて、今も立派に暮らせる豪農なり。さては孫左衛門が世も末だなと思ひしが、それより久しからずして、此家の主従二十幾人、茸の毒に中りて一日のうちに死に絶え、七歳の女の子一人を残せしが、其女も亦年老いて子無く、近き頃病みて失せたり。
19 孫左衛門が家にては、或日梨の木のめぐりに見馴れぬ茸のあまた生えたるを、食はんか食ふまじきかと男共の評議してあるを聞きて、最後の代の孫左衛門、食はぬがよしと制したれども、下男の一人が云ふには、如何なる茸にても水桶の中に入れて苧殻(をがら)を以てよくかき廻して後食へば決して中ることなしとて、一同此言に従ひ家内悉く之を食ひたり。七歳の女の児は其日外に出でゝ遊びに気をとられ、昼飯を食ひに帰ることを忘れし為に助かりたり。不意の主人の死去にて人々の動転してある間に、遠き近き親類の人々、或は生前に貸ありと云ひ、或は約束ありと称して、家の家財は味噌の類までも取去りしかば、此村草分の長者なりしかども、一朝にして跡方も無くなりたり。
20 此凶変の前には色々の前兆ありき。男ども苅置きたる秣(まぐさ)を出すとて三ッ歯の鍬にて掻きまはせしに、大なる蛇を見出したり。これも殺すなと主人が制せしをも聴かずして打殺したりしに、其跡より秣の下にいくらとも無き蛇ありて、うごめき出でたるを、男ども面白半分に悉く之を殺したり。さて取捨つべき所も無ければ、屋敷の外に穴を掘りて之を埋め、蛇塚を作る。その蛇は蕢(あじか)に何荷とも無くありたりといへり。
21 右の孫左衛門は村には珍しき学者にて、常に京都より和漢の書を取寄せて読み耽りたり。少し変人と云ふ方なりき。狐と親し
くなりて家を富ます術を得んと思ひ立ち、先づ庭の中に稲荷の祠を建て、自身京に上り正一位の神階を請けて帰り、それよりは日々一枚の油揚を欠かすことなく、手づから社頭に供えて拝を為せしに、後には狐馴れて近づけども遁げず。手を延ばして其首を抑へなどしたりと云ふ。村に在りし薬師の堂守は、我が仏様は何物をも供へざれども、孫左衛門の神様よりは御利益ありと、度々笑ひごとにしたりと也。」
蛇を殺したことから後にその一家全員が毒きのこに中り亡くなるというショッキングな話です。これを蛇の祟りと言うのでしょう。

それでは「蛇神」は庚申信仰や弁財天信仰の中でどのように復活活躍していったかを次回に「宇賀神」という神様から見ていきましょう。

この話は続きます。



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