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林の中に居て

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林の出口

林の中に入る
実にひんやりとした層に入る
まるで祖母の陶製の枕に火照った胸を押しつけた時の刺すような冷たさだ
どうしてか林の中では,あんなに騒いでいた羽虫達の音も急に途絶え,遠のいて静けさだけが降(ふ)り続いている
今私は雑木林の中に居て,倒木に腰を下ろし,林床に落ちているまだらな日だまりを見ている。その日だまりで劃された眩しさの中に光沢を持った肉厚の葉を付けた稚樹が背を伸ばしている。ここから見上げると天蓋となっている木々の枝葉の隙間がこの日だまりを偶然にも作り出していることに驚きすら感じる。殆ど奇蹟だ。そしてその奇蹟に乗っかってこの稚樹は確実に自分の生をものにしている。
何かを期待して林の奥の暗がりをじっと見つめる。期待するのは枝枝を渡るリスのような軽いものではない。静まり返った林の中に微かな,でも身に応える程に拡大されて聞こえる枯れ枝を踏む音だ。その音で凍った沈黙の林に戦慄が走る。アナグマやキツネのような重さを感じさせる小動物が望ましい。しかしそんな望みは長続きするはずもない。もう思考は林の中の暗がりの豊かさをつくる様々な木々の幹の微妙な明るさの違いに移っている。シイカシ類のごつごつした黒い縦のひび割れのリズムやホオノキの暗めのグレイや若いケヤキの撫でる樹幹のなめらかさに次々と心は奪われていって,その思考の断片はことごとく林の沈黙の泉の底に沈んで行く。

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林床に差し込む光

しかし,この林の木々の間につくられた空間は何とも素晴らしい。この木同士の離れ方は絶妙と言うしかない。互いの息が掛からない,それでいて木の独り言が独り言として微かに隣に届けられるこの距離と空間は何百年かけてつくられたものだろうか。そしてこの絶妙な空間にはチョウや羽虫が直線の飛翔の加速を許す思いやりさえ感じられる。杉林とは比較にならない程の豊かな暗がりのグラデーションだ。まるで薄暮が終わる前の世界が最後に発光する瞬間に似ている。

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続いている坂

林の魅力を伝えることは難しい。
写真に撮っても,ましてや文章にすること自体が至難の技だといつも感じている。それでも林のことを書きたいと思うし,写真で表現したいといつも思っている。そんな時私は,いつもツルゲーネフの「あいびき」を読み返している。ツルゲーネフの書いた「あいびき」の林は白樺の林である。また少し引用してみます。
秋九月中旬というころ、一日自分がさる樺(かば)の林の中に座していたことがあッた。今朝から小雨が降りそそぎ、その晴れ間にはおりおり生ま煖かな日かげも射して、まことに気まぐれな空合い。あわあわしい白雲が空一面に棚引くかと思うと、フトまたあちこち瞬く間雲切れがして、むりに押し分けたような雲間から澄みて怜悧(さかし)気げに見える人の眼のごとくに朗らかに晴れた蒼空がのぞかれた。自分は座して、四顧して、そして耳を傾けていた。木の葉が頭上で幽(かす)かに戦(そよ)いだが、その音を聞いたばかりでも季節は知られた。それは春先する、おもしろそうな、笑うようなさざめきでもなく、夏のゆるやかなそよぎでもなく、永たらしい話し声でもなく、また末の秋のおどおどした、うそさぶそうなお饒舌しゃべりでもなかッたが、ただようやく聞取れるか聞取れぬほどのしめやかな私語の声であった。そよ吹く風は忍ぶように木末を伝ッた。照ると曇るとで、雨にじめつく林の中のようすが間断なく移り変ッた。あるいはそこにありとある物すべて一時に微笑したように、隈くまなくあかみわたッて、さのみ繁くもない樺のほそぼそとした幹は思いがけずも白絹めく、やさしい光沢つやを帯び、地上に散り布しいた、細かな、落ち葉はにわかに日に映じてまばゆきまでに金色こんじきを放ち、頭かしらをかきむしッたような「パアポロトニク」(蕨の類い)のみごとな茎、しかも熟(つ)えすぎた葡萄めく色を帯びたのが、際限もなくもつれつからみつして、目前に透かして見られた。
読んで見ると分かるように視覚だけでなく,聴覚の働きも大きいことが分かる。「そして耳を傾けていた。木の葉が頭上で幽(かす)かに戦(そよ)いだが、その音を聞いたばかりでも季節は知られた。それは春先する、おもしろそうな、笑うようなさざめきでもなく、夏のゆるやかなそよぎでもなく、永たらしい話し声でもなく、また末の秋のおどおどした、うそさぶそうなお饒舌しゃべりでもなかッた」
林の木々が立てる音でも季節は分かると言うのである。確かに音をよく聞くことは空気感を掴むのに適している。「あいびき」の最初はこのように音で林を聞き分けて始まっている。盲目の宮城道雄の随筆でも聴覚による優れた描写がたくさんあり,むしろ私には新鮮に感じられる。音の質や遠近にこんなにも豊かさと深みがあるのかと驚かされる。例えば夏,音のない昼下がり,扇風機をかけ,すべて開け放った座敷に一人でいるとかすかに首を振る扇風機の音で「まるで自分自身を乗せた舟が凪いでいる海の真ん中を漂っているように感じる」と書く。また霧が出た湿った朝,雪が降った朝など聞こえて来る音の透明性やくぐもり方で天気が知れると書く。まったくそうである。優れた描写は聴覚の助けに依る。

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林への道

これによって私は林に居て思う。
聴覚の世界を大切にすることは視覚を助ける。まさに「四顧して,耳を傾ける」のである。
実はすぐれた聴覚による表現がツルゲーネフ,梶井基次郎の「闇の絵巻」に代表される夜を描いた文学やロマン主義文学,自然主義文学の作品に多く見受けられる。これはまさに林という特性に依ると思われる。林は,木々がつくる暗がり,また圧迫感,天蓋のように振りかぶる枝葉,かすかなる光など,ある程度の閉塞感や見通しが利かない世界である。視覚が十分に発揮されない場合は人はよく補助的な感覚を動員してくる。丁度暗闇では聴覚が冴え渡ったりするのとおなじである。つまり何にせよ観察と表現は,まずすべての感覚を総動員させ,時間を掛けて行うことで林を感じることが可能となります。このことを私は以前「感覚遮断の文学」として谷崎潤一郎「陰翳礼讃」「美食倶楽部」を取り上げて話したこともありました。


林の写真がうまく撮れない私にはこの聴覚による感覚の鍛錬が必要だということでもあるのでしょう。わざと目隠しをして世界に立つことや触覚などの皮膚感覚だけで構成させてみたり,嗅覚や味覚の鍛錬を行うことなど教育の中でも感覚を研ぎ澄ますプログラムは多く実践されています。現代人も周囲の世界をより多層的に受け入れるための訓練は意義あることと感じます。




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