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1,2,3がなくて4の月

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8月20日 月齢1

8月19日に新月を迎え,今日は月齢5となる。今日のタイトル「1,2,3がなくて4の月」というのは三日月の日が曇っていて撮れなかったので3がなくてという意味である。
夕刻の薄暗さがどこからともなく訪れ始めると昼の暑さが遠のき,晩の風が吹く。夏の夕暮れは干からびた昼の景色を赤赤と燃え立たせて終わる。そんな時に自然と空に目印を探し始める。宵の月をである。

中空に浮かんでいても,山の端を際立たせていても,月は何かいつも人を惹きつけ,終わらない物語を紡ぎ続けてきた。昔の人が月を崇め,月待ち信仰を繋いできたのもよく分かる気がする。昼の農作業にけりを付けた百姓が話を交わしながら,間もなくの月の出を待つ楽しみを味わうひと時。やがて地平線をほのかに明らめ,しずしずと月が恥ずかしげに顔を出す。念仏を唱える声にも少しずつ喜色が混じる。

映画やドラマで場面の繋ぎによく月がアップで出てくることがある。
その場合,月は夜という時間帯を表したり,時間経過を表したり,場面の転換を表していたりする。また,いっときの間をつくる場合にも使われている気がする。月はこの世にありながら放下されたものの代名詞になっているのかもしれない。この世にありながらこの世から投げ出された存在なのだ。人が月を観るというのはこの世から投げ出されたものに自分が対峙していると解されてよい。その場合その人は大げさに言うけれど,自分を捨てているのだ。自分自身を月に投げ出してもぬけの殻になっている。
これによく似たものに川のそばにいる人の背中が思い出せる。その人は川面(かわも)をまるで放心したように眺めている。そこには明らかに無時間がその背中に刻まれている。川や海に一人で対している人は一旦この世から遠ざかっているように見える。実際そうだ。およそそこでは言語に依らない感情処理が自働的に進行している。まるで機械が夜中にひっそりとバックアップを取っているように表面には出てこない調整機能が人間に睡眠の間に働くように・・・。これらの類の話は今までにダビット・カスパー・フリードリヒの絵や「リバー ランズ スル ーイット」等の映画の話をした時に触れてきた。雰囲気がよく分かるようにフリードリヒの「海辺の修道士」をもう一度見てみよう。投げ出された人間の無時間が背中によく出ている。

海辺に立つ修道士
デビット・カスパー・フリードリヒ『海辺に立つ修道士』(部分)1809-10
この絵について書いた記事「振り返らない」という行為の意味は「 こちら 」を見て下さい。

およそ海と対峙し,こちらに背中を向けている人間はこれで世界が閉じている。つまりこの世との関係性を絶った,投げ出されてある人のことを意味している。海だけではない。川面に目を送ってみるとよい。人はたやすく自分を投げ出すことができる。この放り出されてある身をつくるのに水辺は実に適している。井戸を覗いてみるとよい。井戸の底の水に簡単に吸い込まれていくのである。

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8月21日 月齢2

どうも月には水辺と同じように人をこの世から放り出して,異世界に憑かせる魅力があることは確かなようだ。閉じられた世界にいる者はけっして〈ふりかへる〉ことはありません。水辺に立つと言うことは,自分では解し得ない現実の脈絡もない筋書きを,水という鏡に他人事のように写し出すためでしょう。

西行の歌と言ったら桜だが,山家集の中には桜が一番多く230首も詠まれているそうだ。しかし月の歌も多い。『西行』を書いた高橋英夫氏は「西行は現世に浄土を見ようとした人そして西行にとって花は浄土からのたよりだ」と言った。月もまた言葉に依らない浄土から手紙である。

「西行の歌う月の歌の総括」という記事を読むと西行の月の歌は「四季ごとに季節表示できる歌は 221首、季節不明の西行の月の歌は 175首、従いまして、月の歌の合計 396首でした。」とありました。かなりの数です。

353 ゆくへなく月に心のすみすみて果てはいかにかならんとすらん    西行
自分の心が月に飛んでいき,投げ出され,放下されていく様子がよく分かります。

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8月23日 月齢4

今宵も月を探すのだろう。
そしてこの世から投げ出されるためでもなく,月を眺めてただただ放心する自分がいるであろう。



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