2022/08/01
ドライブ マイ カー「脚本読み」

今朝の長沼
「ドライブ マイ カー」の続きです。今日は映画の中でも割合に大きな位置を占めている「脚本読み」についてです。
広島国際映画祭で家福祐介(西島秀俊)は上演されるチェホフ「ワーニャ伯父さん」の舞台監督を務めることになります。キャストは,台湾,中国,日本,韓国と多くの国から出演を希望した俳優によって演じられます。それぞれが自国の言葉で台詞を言うので,自分の台詞が終わったら机をコンと叩いて次の人に知らせます。ついには韓国人女優の手話まで入ります。この中に高槻(岡田将生)もワーニャ役で入ります。観る者は舞台のスクリーンに映し出される翻訳された字幕スーパーによって意味を知ることができます。バベルの塔的な感じがしますが,ありうる設定です。配役が決定していよいよ「脚本読み」です。この「脚本読み」がまた独特です。つまり台詞に感情を入れずに平坦で,ゆっくりと,棒読みをして下さいと要求されます。役者達もこの棒読みの意味がよく分かりません。とにかく家福の指示通りに皆は毎日魂の抜けたような「脚本読み」の読み合わせを続けます。感情を入れずに平坦で,ゆっくりと,棒読みの「脚本読み」に注意される高槻と少しうんざりしていたユアンが「わたしたちはロボットではありません」と言ったりもします。
ぐぐってみたらこの退屈そうな「脚本読み」の方法は「濱口メソッド」と言われているそうです。ところが,この繰り返しが本番では劇的なリアリティーを俳優達にもたらすのだそうです。家福役の西島秀俊さんが言います。
ここに述べられている毎シーンごとに感動する不思議な感覚とはどんなものなのでしょう。普通俳優の演技は台詞から得られる感情の更なる身体への強調と広がって行きます。これはある面では究極のビジュアルの競争へと俳優を駆り立てていきます。目つき,感情むき出しの台詞,無闇な身体の動きと段々派手になっていきます。しかし,それが良い演技になるのでしょうか。少なくても高槻はそう思っていました。オーディション時の彼の演技は相手に関係なく派手で暴力的なものさえ感じさせました。でもそうした自分のすべてを相手に投げ出すような演技があってもいいのです。そこで家福は高槻にワーニャを演じさせることにしました。自分のすべてを相手に投げ出した果てに,相手の聞き取れない程の小さな言葉に耳を澄ませることが俳優の演技の化学変化となると思うのです。家福は敢えて高槻の演じるワーニャで挑戦させてみようと踏んだのでした。「ずっと本読みをしているので、全員の台詞が頭の中に完全に記憶されるんです。でも本番になったときに、相手が初めて感情を込めてその台詞を言うと、突然、目の前に生きている人がばーっと現れたような感じがして、毎シーン感動するんですよね。不思議な感覚です。もちろん相手は知っている人なんですけど、初めて見る面を見せつけられるような感じがして。何気なく見えるシーンでも、非常に演じている側は感動するという、初めての体験でした。個人的なキャリアとしては、全くいままでとは違う演技になっていたのかなと思います」
さて棒読みばかりを聞いてきた相手が本番で初めて感情を込めて台詞を言うと,そこに閉ざされていた人間としてのコミュニケーションが立ち上がります。相手の生身の感情が迫ってくるのです。俳優自身がその場でリアルな化学変化を起こしていきます。そういう点で濱口監督は「演じる俳優のドキュメンタリーを撮っている」とも言います。役づくりという言葉があります。それは俳優自身が演じる役の背景を読み込んでいく作業でしょう。相手に,特に女にすべてを投げ出すことのできる高槻は果てしもない自己への問いの連続が演技の姿勢ではないかと考えています。一方で「自分はからっぽだ」とも言います。しかし若い頃って誰でもそうです。若かったワーニャもそうだったでしょう。しかし,年老いて振り返れば人は自分の人生を「これでよかったのか」と疑うこととなります。その点で家福は47歳の現在のワーニャです。子どもが死に,愛していると信じていた妻,音(おと)のことも実はさっぱり分からないで死なせてしまいます。
現実の家福はやがて劇中のワーニャと重なり合い,往きつ戻りつしながら,演ずることと演じる人がやがて侵蝕して重なり合う構造を筋立てにした「ドライブ マイ カー」は深みを感じさせる映画です。ちなみに妻の音が死んでしまう朝に「今夜話したいことがあるの」と相談を受けた家福ですが,以後一切,妻は生きていたら何を話そうとしたのかと自分自身に問うことがないことが不思議でした。
この話は続きます
次はやっぱり不思議な前世はヤツメウナギの妻,音についてです。

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