2022/08/08
「ドライブ マイ カー」4―濱口竜介,語りの原型へ―

美しい田んぼを見るISS―稲架け編―
私が勝手に新田一美しい田んぼだと思っているここ。
その田んぼの持ち主が千葉さんだ。
「今年はコンバインで稲刈るがら,もう稲架けすねど(やらないよ)」と言うではないか。
美しいものをつくるにはそれだけの手がかかるものとは分かっているつもりだが,とても残念。
この写真が美しい稲架けをする千葉さんの田んぼの最後の写真となる。

酒井耕・濱口竜介監督「うたうひと」は,彼らの東北記録映画三部作「なみのおと」「なみのこえ」の三作目となる
「ドライブ マイ カー」の感想で,「うたうひと」を出す人はあまりいないと思うが,「うたうひと」は,同じ濱口竜介が2013年に撮っている昔話の名手3人(宮城県栗原市の佐藤玲子、登米市の伊藤正子、利府市の佐々木健)の語りのドキュメンタリーだ。何気ない懐かしい昔話が全編に続く。
「ドライブ マイ カー」の登場人物達の語りと「うたうひと」の語りの空間は実に似ている。
それは語ることや語られることは,改めて一対一の実に壊れやすい私的な空間から発生していることに気付かせられるからだ。基本的に「ドライブ マイ カー」の登場人物達の語りは,よくよく考えるとどこか非常にモノローグである。伝わるか,伝わらないか際どい細いラインを紡いでいるようだ。そこには会話としての伝わらなさが前提になっている。外国語でも手話でも,ジェンダーでも,素でも演技でも,伝わらなさの条件の方が多いことが提示されている。閉じられた空間をつくる「ドライブ マイ カー」の車の中は実に孤立した語りに適した空間で,「うたうひと」の静かな雪の夜の部屋の静けさと一致している。
このような二つの作品の似たことを並べる心算(つもり)はない。
この一対一でしか存在できない小さな空間にそれこそ劇的な他人同士の信頼の交換がなされるという奇蹟がすばらしいのだ。
「ドライブ マイ カー」の中で家福音が夫の祐介に語り掛けるシーンと「うたうひと」で囲炉裏を囲んで昔話を語る人と聞く人の間に交される絶対的な信頼とは一体なんだろう。語ることは,自分のすべてを相手に投げ出すことであり,聞くことを許された者にしか語らないものなのである。
「ドライブ マイ カー」,「うたうひと」,どちらの作品も伝わらなさの深淵を越えて相互理解を命がけで図ろうとする者たちの語りが基本となってつくられている。このいわばある面で命がけとも言える他人の語りを私たちは真剣に聴いてきたのだろうか。恋人や家族,友だちや身近な人の語りを逃げながら,対立をつくるために,嫌悪の感情をもって,もう何度も同じことをと反抗の態度をもって聴いてこなかったろうか。相手を理解するということは相手の差し出す言葉を全面で肯定して受け取るということではないだろうか。相手から差し出される言葉を心から理解しようとする姿勢であなたは聴いてあげただろうか。資本主義や効率主義に染まりすぎた刺激だけを優先する枠で他人の話を聴いて批評などを返してあげなかったろうか。逆に話す相手の弱点を突いて反撃しなかったろうか。それらはすべて一対一からつくりだされる奇蹟の空間を,「ふり」をして効率的につくりだそうとするものなのだ。文字は後である,語りが先である。心が先である,文法は後である。相手が語ることを理解しようとする態度は,あらゆる利害関係を越えて相手を理解しようとする唯一の方法である。
濱口竜介監督は,「うたうひと」によって語ることの静的な豊かさを知った。そして同時に,彼は語ることは,容易に相手に理解されない現実を意識した。「ドライブ マイ カー」は語ることとその語りを理解する側の跳び越えようとする「飛躍」を浮き彫りにした。人には相手の言葉を手がかりに相手の心に飛び込む勇気が必要である。それが奇蹟を生み出す。ドイツ語で「satz」とは文を意味するが,元々は「飛躍」という意味だとハイデッカーが言った。濱口竜介がこれらの問いにどう向き合っていくのか(何も答える必要はない),今後に期待していきたい。

- 関連記事
-
-
すずめの戸締まりからのメッセージ 2023/03/17
-
ファーストライト 2023/02/01
-
「ドライブ マイ カー」4―濱口竜介,語りの原型へ― 2022/08/08
-
ドライブ マイ カー3「言語化の呪い」 2022/08/03
-
ドライブ マイ カー「脚本読み」 2022/08/01
-
スポンサーサイト
コメント