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オシラサマの祭日について

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マッスに挑む 今朝11月29日 蕪栗沼

今日もオシラサマについての話の続きですが,特にオシラサマの祭日について書いてみたいと思います。
オシラサマについては,あの柳田國男も「大白神考(おしらがみこう)」であれやこれやと逡巡しながらだらだらと文庫本で219ページ余りも書いています。それだけ難しいんだと思います。親友ニコライ・ネフスキーが突然ロシアに帰ったと思ったら,全く音信不通になり,結局はスターリンの粛清で彼も,そして妻のイソさんも殺されていたと分かったのは昭和26年頃ではなかったでしょうか。オシラサマでつながっていたネフスキーと柳田。もう躊躇はしていられない。ネフスキーの深い学問を思い出の国,日本で残してあげたい。そう柳田は決心して書き始めたのでしょう。

まずはオシラサマの岩手県での分布図からです。
1591085241オシラサマ
「岩手のオシラサマ分布図」いちのせき市民活動センター「伝説調査ファイルNO.6「オシラサマ」」から

岩手だけではなく東北六県,更に全国的にオシラサマとは言わなくても同じような信仰が残っています。これは,すっかりオシラサマが養蚕だけではなく,庶民の生活そのものまで浸透していたといってもいいでしょう。つまり祈祷,占い,神降ろし等を執り行う巫女によって村の津々浦々まで入り込んでいたのでしょう。大正九年のネフスキーの登米市来訪に伴い,高橋清治郎が見つけただけでも佐沼中心に六人の巫女がいて,すべてオシラサマを祈祷や神降ろしに使っていたのですから,大正になっても信仰の一般化がかなり進んでいたと思われます。そしてその信仰が女性中心に行われていたと言うことも生活に深く入り込んでいたと思わせます。
さあ,そこでオシラサマの祭日です。これがいろいろですが,およそ「正月十六日」「三月十六日」「九月十六日」の三回になるというのです。年に三回も祭日があること自体が珍しいです。
まず,「正月十六日」ですが,「オシラサマ遊び」の日です。当然十六日は月齢16ですからその年の初めての望(満月)の次の日だということで,農村ではこの日にその年初めての墓参りが行われます。仏の正月です。女達の月暦による講の活動がいよいよ始まる意味もあるのでしょう。この日女達は集まり,オシラサマの衣裳を新しい衣裳にします。今までの来ていた衣裳の更に上に着せてあげます。そしてオシラサマと一緒に遊び,お茶を飲み,楽しく食べながら時を過ごすのです。この儀式にはどこか女達の,御先祖様を祭る儀式と重なるような気がします。
では「三月十六日」はどうなのでしょうか。三月もやはり満月の沈んだばかりの日です。わたしは三月が春彼岸と山の神を祭る(こちらでは三月十二日)女の講と結びついているような気がします。春彼岸に入りますと,まず村の女達は巫女を呼び,今年の作柄を占ってもらったり,口寄せの先祖の話を聞きます。そして無病息災を祈ってもらうのです。そしてお彼岸中日に百万遍念仏を行います。

そこでわたしは新田の石碑の建立月を調べてみました。
石碑月別建立数
迫町新田の石碑月別建立数

三月と九月が飛び出て多いことに気付きます。その内,約半数は馬頭観音です。ただ,断わっておきますが,オシラサマに関係した石碑はありません。あくまで石碑の全体的な数と馬頭観音碑と関係づけているだけです。
九月はどうでしょう。九月十九日は特にいろいろな寺社の祭日が集中しています。そしてこの日九月十九日に馬頭観音建立数がずば抜けています。下の図を見て下さい。
図1
九月に建てられた石碑の建立月日調べ

オシラサマもこれらの三月の春彼岸,九月の秋彼岸を中心とした寺社祭日に同じように祭られます。農作神の迎えの三月,お帰りの九月,そして作を占う正月とオシラサマも祭られていきます。社会を支える女達の手によって祈られ,巫女という女によって祭礼は執り行われ,山の神信仰を支える女達によって深く信仰されたオシラサマです。

この話はつづきます

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