2022/12/22
自由への白い道7-日本人の自然の見方-

夜明けのISS
この「自由への白い道」という連載は今年の夏に始めてから中断していたものです。
現代は,コロナによるパラダイムシフトを強いられ,その真っ只中にいます。そんな中でも自分が自分らしく生きる自由を探るスタンスを持ち続けていきたいと願います。それを「自由」というキーワードから探ることがテーマです。
まず最相葉月の「セラピスト」の中の言葉です。
話しても理解してはもらえないだろう。そもそも私の話など聞いてもらえないだろう。そんな諦念はどうも子どもの頃からあったような気がする。それは私がそのような家に育ったということなのだろうか。あの頃は親も若かった。経済的にも苦労していた。私はそんなふうに親を理解し,自分ががまんすればそれでいいと考えてきた。家族にも他人にも自分の悩みを打ち明けたことはほとんどなく,自分自身で解決してきたという思いがある。内面を言葉にしない。いや,言葉にできない。私のそういう姿勢が,逆に家族や友人にどんな思いをさせ,どんな影響を与えてきたかは想像したこともない。
この感情の表出を諦めることや押し黙るという自己表現の着地点への固着,「どうせ分かってもらえない」という苛立ちは,そのように自分が追い込まれた社会や関係性や自由の喪失に深く関わっているように感じます。そのような自分を縛っているものから自由でありたいというスタンスを取り続けたいと人は思うものです。
ここがスタート地点です。自分の自由へ道はいつもか細く,消えかかりながら続いています。だからこそ自由への感受性を高く保つことは大切なことです。
興味のある方は続きをクリックしてご覧下さい。
ここで,「自由への道」のおさらいを兼ねてその見取り図を掲げてみます。
まず「身体」というキーワードです。
私自身が,身体レベルから自分の身体であると同時に,身体が社会の共有物でもあるのです。よく親からもらった身体という言い方をしますね。私たちの身体の可塑性は隅々まで社会に張り巡らされた監視・管理の権力によって統御されていることを確かめたいと思います。これが福祉国家の安全・安心の,人を生かしておくことも管理する装置なのです。これをミシェル・フーコーは「生―権力」と言いました。現代ではコロナ対策や介護支援という名で,国民全体の生が良くも悪くも監視・管理されています。よく「誰も取り残さない社会」「一人一人が生きる権利がある社会」と声高に言われますが,私たちが今生きている家族,地区,仕事場社会には常に権力という力が働いています。監視・管理が行き届くような網の中に皆入っているのです。そのために巧妙に,潜行しながら効率的に権力が行使されています。
このような考え方はもう1980年代から村上龍の言う「システム」(1980の「コインロッカーベイビース」)や浅田彰の「逃走論」(1983年「構造と力」から)で取り上げられていました。これらの視点は自滅的に膨張し続ける資本主義の中で,テロに依らない市民権(自分の居場所)をどのように一人一人がつくれるかという動きになりました。
身体の捉え方は最近トランスジェンダーや生きられたもう一つの人生やテレビでも取り上げられた本,イスラエルの社会学者オルナ・ドーナドの「母親になって後悔している」,湊かなえ「母性」などから社会を持続させる安定要素と見られてきた基盤(ジェンダー,セクハラ,パワハラなどの見直し行為)が見直され,再構成されつつあります。「母親だから,男だから,女だから,上司だから,部下だから,こうしなくてはいけない。こうあるべきだ」という内面化された社会原理が実は強制と偏見を生んできた。今まで作り上げてきた権力の網の結び目部分にほつれやほぐれが構造的に見つかり始めたということです。現代は手探りながらも早急なパラダイムシフトが求められている時代です。利潤追求や目標達成というトップダウン社会,階層(上司-部下,親-子)を有利に行使しようとする効率的な縦型の支配権力が,期待される個人としての役割分担(上司-部下,妻-母親)や責任に対して異を唱えています。この権力行使の効率的な網の目,トップダウンの権力構造は,進化論の樹形図構造や宇宙を理解する多宇宙構造(マルチバース)とイメージ的に似ています。

ヘッケルの樹形図
利潤追求や目的達成のための効率的なトップダウンの樹形図構造の権力基盤から出てきた父,母,上司,夫,妻という社会的な役割の貫徹。それだけで人を見るなと自由競争が破綻しつつある今の世界は声を揃えています。
これらの樹形図的な考えは,実は自然の捉え方そのもののパラダイムにも密接に関わっています。その「自然」というキーワードが次のキーワードです。サドの考え方を出してきた記事が「自然の捉え方」に関わってきます。
この記事は続きます
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