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年越し写真帖-自由への道「自然」-

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飛立つハクチョウ

年も押し詰まり,今日は近くの神社の鳥居に新しい注連縄(しめなわ)を付けて元朝参りの準備をしました。記事は毎日書こうと思っているのですが,中々うまくいきません。どんどん写真だけが溜まっていきます。写真だけでもアップしておこうと思い,「年越し写真帖」となりました。

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夜明けの雑木林 薄明に入ってからの林の様子です

ところで「自由への白い道」の連載,今度は「自然」です。
人間の自然との関係の持ち方は,西洋と東洋ではかなり違います。自然は適切に管理・運営されるものという聖書にある西洋の考え方と日本人の自然観は全く違うと言えます。日本では自然の中にあるすべてのものがそのまま神様となります。山であれば山そのものが神様,海であれば海そのものが神様,太陽,月,星,動植物なども神様です。すべて神様という地平でこの世を考えると「山川草木悉有仏性」となり,存在するものすべての平等性が立ち現れてきます。この「平等性」という考え方がとてもよいことだと思います。
一方西洋では,自然そのものは,そのままにしておくと混乱状態が発生する,例えばホッブスの「人間の自然状態は、社会が作られる以前には、果てしのない戦争状態であった。しかも、それは単なる戦争ではなく、 万人の万人に対する戦争であった」と自然が適切に管理されるように法の支配やルール形成が必須であった。自然は無秩序的なのです。ですから,人間による適切な管理支配が前提になります。
一体「自然」というものの捉え方は西洋と日本とではどうしてこんなにも違うのでしょうか。
日本の「山川草木悉有仏性」という基本は,自然そのものへの畏怖の感情だと言えそうです。自然の驚異に対して人間は一向に歯が立たないという前提から始まり,畏怖の対象としての自然をとにかく怒らせないという考え方です。自然を神として祀(まつ)ることで祟りを回避し,自然の穏やかさを祈り続けたということではないでしょうか。これは中国の三才説に起源があるのかもしれません。人が乱れると天が怒る,天が怒れば地上に災害や災難が降り注ぐ,世が乱れるという考え方です。一見ペシミティック(悲観主義的)と言えそうですが,災害の多い日本には合っていたのでしょう。

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霧の朝

ところで今年もいよいよ終わりになることから,常日頃感じていることを少し書いてみます。
私は写真を撮ることも,考えを言語化して文章にすることも同等に大切なことだと思って,このブログを続けて来ていますが,どうも「写真では足りず,文章ではくどくなる」というギャップに苦しんでいます。写真という表現はやはり「一瞥 at a glance 」の芸術です。一方,文章はどこか音楽と似ていて,時間経過による言語表現です。この写真と文章が融合する領域はないものかと探し続けているみたいです。視覚の言語化されたというか,詩のような写真というのか,見ることと言語にすることが同時に表現できる着地点はないものかと模索しています。

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朝の日暈

写真というものは写し取る技術があればそれでいいというものでもなく,この写真で何を言いたかったのかという鑑賞者の一瞥の視点に依存する処があります。だから主題がはっきりしているか,テーマが明確に出ているかという批評に沿って一瞥が分析されていきます。一瞥を批評(言語化)することがどの程度可能なのかは分かりませんが,表現作品であれば,そういった過程を踏むことでしか表現は理解されません。すべての批評はオープンエンドだと開き直ることもありえますが,どうやら今のところ読み解くことによってしか表現の意図に近づくしかありません。

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霧晴れ往く

いやいや大晦日までこんなことを書いてしまいました。

このブログは当てもないまま2023年で14年目に突入します。


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