2023/02/05
自己評価カード

朝の跨線橋から
私が仕事をしていた時代,この時期になるといつも書かされている自己評価カードという書類があった
私はこれがいやでいやでこの時期は耐えられない程の憂鬱に襲われていた
自分が仕事でこの一年どんな実績を上げられていたか,自分が計画したことをどれ程達成できたかを5段階の数値として計上し,文章でその内容を詳述するという様式であった。どうしてあれ程いやだったのか,今でもよく分かってはいないが,どうやら世の中に対しての自己開示というか,世間に対するパフォーマンスが下手であったと言うしかない。しかし,ただそうなのではなく,何か世間の理解の規準に対して烈しく拒否したい姿勢に満ちあふれていたことも確かだ。上司や部下と相互に理解し合っている幻想の評価大系に自分も一コマ加担したなどとはどうしても思いたくなかったのである。
こんな自分でもある年にまぐれでも結構いい仕事ができたということがあり,素直に評価4(評価としては「よい」)を付けて提出した。すると上司がすぐ私が書いた書類を突きつけて,「評価4を付けるとは何か表彰でもされたのか,論文が入選でもしたのか」と詰め寄ってきた。そんなことでもなかったら評価4などは付けないものだと上司は興奮して言うのだった。私は自分への自分の評価を下げざるを得なかった。外圧によって自己評価が,権力の行使によって,自己評価そのものが否定されたのだった。相互理解の,仕事を的確に評価する客観的な書類のはずなのに。

林から昇る朝陽
私たちは世界に声を上げる権利がある。しかし,そうした選択肢がすでに奪われている場合がちょくちょくあるものである。従って自己評価カードもただの形式と化して形骸化していった。権力を行使する者が偏見をもって部下の仕事を評価する習慣がなくならない限りやることすべてが上司の価値基準で次々と塗り替えられていき,働いている部下自身の仕事と永遠に乖離していく。この時に権利を行使する上司が適任ではないとはおよそ言えないだろう。しかし,皮肉にもこのような器の小さい理解力の乏しい上司が家庭ではよい父親だったりもする。安心や安定した仕事をしたいと思う自分と正しい道を選択したい自分がいつの世も一致するとは限らない。権力大系の中に組み込まれている間はこのギャップから逃れることはできないのである。

通過する電車
だったら自分はただの被害者かと勝手に自己評価してすねてはいけないだろう。
およそ大きな主語で話している自分が他の場面では別の権力を行使していたりするのだ。何よりもよく考えれば自分自身がそうなのである。権力を行使する網を張ることなく,自由に人と対することができること。自由への道はまだ遠い。

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