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書-自由への道-

継色紙310-7
継色紙

さて自由を求めて彷徨う「自由への道」も10回目になります。

この継色紙という書を見ていると,実に自由で優しくまた,たおやかな手のぬくもりさえ感じます。
このような仮名文字がこの日本という風土の中で,心身ともに自由であるからこそ生まれ,その自由を極限まで体現されたものが書の芸術です。
敢えて行頭を合わせず,字体もぎりぎりまで自由に崩しています。また文字の大きさも心のままに自由で,置かれてゆく文字は空白の多い全体の中で,白の色紙に流されそうになるほどにかすかな息です。その極度の緊張が創り出すかすかな細い息だけでかろうじて全体のバランスが保たれています。
これ程自由ならば,その自由を指向する自分の写真にも乗せてみたい。誰しもそう思うと思います。
そこで「めづらしき こゑならなくに ほととぎす ここらのとしの あかずもあるかな」の紀貫之の歌を小野道風の手で乗せてみました。どうでしょうか。

継色紙300-7
めづらしき こゑならなくに ほととぎす ここらのとしの あかずもあるかな

さてこの仮名文字がどうして日本で生まれたのか,それは奇蹟とも言える発明であることは確かでしょう。
私が感じているのは漢字という堅すぎる,緊張の表現からの解放。日本的な自由の享受。
春の風になびく桜の枝先から花びら一枚が離れて,空に舞う曲線の美であり,霞みゆく川辺の霧の彼方に朧気に浮かび上がる山の端であり,時雨れる時の空気のもたついた重さです。たった一文字の中に,身体のこわばりから解放されつつ,筆先に伝う水のひとしずくの走りさえ心が辿ろうとする。四季の自然の移ろいが人肌に沁み入るその時に生まれてくる感情のふるえ,その驚きや発見をそのまま文字に憑依させる。それが仮名書表現の自由さです。

私は今まで村上龍,浅田彰,フーコーやサド,キリスト教自然観から自由を語ろうと試みましたが,よくよく考えれば日本のかな文字の表現の中にこそ求めていた自由はあったと感じています。


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