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自然の音が人に語りかける

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今朝の長沼

上野千鶴子氏がラジオの対談の中で言った,次の言葉にはっとした。
「(言葉は自分のものではなく,)言葉とは他人のものだ」
上野千鶴子  だから、不完全な表現の器に行って、無理やり自分を開いていった。言葉って他人のものなんだって。その当時、(ジャック・)ラカンが流行っておりましてね、ラカンがはっきり「言葉とは他人のものだ」ってはっきり書いてるわけです。「そうか、他人のものか、私のものじゃないんだ」って。「言葉を使うって、もう既にその時点で他人に自分が乗っ取られてるということなんだ」と思って、ある時、そう思ったら文章がワーッて書き出せたんです。
「言葉を使うって、もう既にその時点で他人に自分が乗っ取られてるということなんだ」と,気付いた時に,彼女の中で,表現の「手続きの地平」が見えてきて,腑に落ちたのでしょう。それまでは,私(上野氏)一人だけの表現を求めていた。純粋に誰かの不純物は一切入らない自分だけの言語表現を求めていた。それが文学だとも強く思っていた。しかし,出発の時点で,もう私自身が使う言葉は,既に乗っ取られていた,という風に読み取れます。
このように語る上野氏は,自分だけの言葉で,自分だけの表現で,今までには誰もできなかった自分だけの言語空間をつくり上げたかった。でも,そんな完全なる自由は,実は最初から奪われていたのです。このことに気付いた時に,彼女の言葉の「手続き」が了承できたのでしょう。
あの坂本龍一が,雨の音,川の音,海中の音などの自然の音をひたすら録音したり,世界中の音をライブで集めて来て,札幌の会場のスピーカーで交響させたりする試みを行なっていたことは,よく知られています。音という音楽家の扱う素材の新しい展開を創造ようとする行為と,上野千鶴子氏が「私一人だけの表現を求めて」言葉と格闘する行為は似ています。音楽は音は素材,文学は言葉という素材を「置き換えて」,オリジナルな作品をつくることだからです。
この上野千鶴子の持つ唯一無二の言葉世界と,坂本龍一の持つ自然の音の音楽的意味の世界を「せわしく」往き来していたのが,宮沢賢治の言葉と音の実験です。
「鹿踊りのはじまり」で,自然の音はやがて人の話している言葉になると賢治は言います。
わたくしが疲れてそこに睡りますと、ざあざあ吹いてゐた風が、だんだん人のことばにきこえ、やがてそれは、いま北上の山の方や、野原に行はれてゐた鹿踊りの、ほんたうの精神を語りました。
このような自然の音が,言葉に「置き換えられる」とは,何でしょう。海の音が語る,風が語る,雨が語ることを,人の言葉に翻訳できるとは,どんな能力なのでしょう。まるで不思議です。
嘉十はにはかに耳がきいんと鳴りました。そしてがたがたふるえました。鹿どもの風にゆれる草穂のやうな気もちが、波になつて伝はつて来たのでした。
 嘉十かじふはほんたうにじぶんの耳みゝを疑うたがひました。それは鹿のことばがきこえてきたからです
これは,どうやら「私一人だけの表現」という欲を超えて,自然の音を人の言葉に翻訳することと,人の言葉を自然の音に翻訳する「置き換え」の最たる技法でしょう。この世のすべてのものが,同じ次元,同じ地平に収束していくのです。自然の音が人の言葉になるなんて,ただの魔法で,突拍子もなくただのファンタジーだと思われますが,オノマトペや比喩,副詞などの賢治の言語表現の特異性が,異次元を繋ぐ「特異点」,「聴耳頭巾」となるように設定されています。自然の音を,自分の中から湧き出る内発的な言葉と接触させるのです。自然と自分との出会いがそのまま,自分の内的世界に取り込まれていき,出会いから啓示された言葉が,心の奥底から湧き出た言葉で再配置されます。こんなことができるはずないと誰しも思います。

ところが,この自然の音が人の言葉となって,聞こえるという方法は,実は,昔から口寄せや巫女が行なってきた技法だとは思いませんか。いわば神降ろしです。

これは,次に続きます


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