FC2ブログ

指し示すもの『なぜ銅鑼に「永訣の朝」を載せたのか』

指し示すもの指し示すものがあると人は安心しやすい

 今回は「なぜ賢治は「永訣の朝」を銅鑼9号に載せたのか」を考えたいと思います。
 賢治がどの詩誌にどんな詩を発表してきたのかを探っていくと,どうしても「永訣の朝」が発表されたことに何らかの賢治の特別な意図を感じざるを得ません。そのように感じている方はいないでしょうか。「永訣の朝」を発表したことは,賢治の心の中のトシが多くの目にさらされ,独立していくことになるのではないかと私は思ったのです。そしてトシの死を世間に知らせることに賢治はどう思っていたのかということも逆に見えてくるのではないでしょうか。
 ご存じのように「永訣の朝」は「無声慟哭」と題されたとトシの死について書かれた詩群の中の巻頭に来るあまりにも有名な詩です。賢治も手を加えたり,原稿も3種類あることで,最後の3行の書き直しについても話題にのぼることが多いです。
 この「永訣の朝」が書かれたのは1922年11月27日,トシが亡くなった日です。この詩が 草野心平の銅鑼」9号に掲載されたのが1926年(昭和元年)12月です。「銅鑼」9号が発行される時期がトシの命日に近いので,賢治が四回忌追悼の意味で「永訣の朝」を発表のために送ったと考えられます。私には,このことがトシの死から4年の歳月を経て,賢治の中でトシという存在がどのように変化していたのかを推しはかる象徴的な出来事だと思うのです。たしかに「永訣の朝」は「無声慟哭」群の詩の中での特に場面としてまとまっています。また,詩そのものの完成度も高いです。また作成日付は「松の針」とならんで1922年11月27日です。「風林」はトシの死の半年後の1923年6月3日と時期的に離れていますし,「白い馬」(1923年6月4日)も初版では斜線が入って削除する意向も考えられます。
 次にこんなことも考えられます。賢治に対して「永訣の朝」を載せたいというリクエストが誰からか寄せられていたのではないかということです。ここで「銅鑼」9号の執筆者を見てみると以下のようです。

  第九号 1926.12.1  活版印刷 発行所 東京市外池袋 1258 銅鑼社
  編集者、草野心平 発行者、手塚武
  壺井繁治が同人に加わる。岡本潤、宮沢賢治、黄瀛、尾形亀之助、サトウハチロー、エルンスト・トルラア(土方定一訳)

この号で黄瀛が詩を載せていますが,その詩の題名が「妹への手紙」です。私はここに奇妙な一致を感じているのです。賢治も妹に贈る「永訣の朝」,黄瀛も妹に贈る「妹への手紙」。なにかしら編集者である草野心平の仲介や要請が両者の間にあったのではないかと思われるのです。また誰かが強く「永訣の朝」をぜひ載せるようにできないかと要望したということも考えられます。書簡や書簡下書きなどからははっきりとした事実を辿ることはできませんでしたが,可能性はないわけではありません。これから外堀を少しずつ埋めていく作業が必要になってきます。また,黄瀛が賢治の「無声慟哭」群を読み,深く心を動かされ,賢治さんが「永訣の朝」を載せるつもりならば私も,と思い「妹への手紙」を書いたことも考えらます。また尾形亀之助の「月曜」に一月から童話を載せることになっていたので「銅鑼」同人の尾形亀之助の意見が働いたのかもしれないし,賢治の作品や動静を注目していた高村光太郎の意見があったのかもしれません。石川善助かと思いもします。善助は森佐一の「貌」の創刊号から同人になって「夏とニヒリスト」(ペンネームは石川鶺鴒)を賢治と一緒に載せています。のちに石川善助が不慮の死をとげたことを賢治は病床で知り,大変落胆したことは賢治の書簡の中から痛いほどわかります。
 次に,発表のために「永訣の朝」を書き換えた形跡がないことです。4年前の作品をそのまま載せることにどんな意味があったのかも,書き換えが多い賢治作品の中では異例なことですから確かめておかなくてはいけない点でしょう。

にほんブログ村 写真ブログ ネイチャーフォトへ
にほんブログ村

関連記事

コメント

非公開コメント