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詩の映像-小栗康平『埋もれ木2005』-

眠り
眠るハクチョウ 伊豆沼
   NikonD70 300mm F6.3 1/400 ISO800 +0.3 2006.12.29

 もう4年も前の映画になったんだなと思う。小栗康平の『埋もれ木』である。名作である。この詩的な映像に打たれてしまった。
 タルコフスキーが映画をつくる際,最も嫌ったのが次から次へ展開させるゴリ押しの脚本,これでもかと語るところに強制的に連れて行こうとするドラマであった。彼は映画を語るときP.ヴァレリーを引用する。

「完全を手にすることができるのは,ただ意識的な誇張に向かわせるようなあ らゆる手段を拒否しているものだけである。」

 小栗康平は映画づくりにおいて,タルコフスキーのように詩の基本を守り続けている希有な監督である。わたしは,そんな映画のスタンスを持つ小栗康平に深く共感する。
 人はだれでも,お仕着せではない自分の時間を生きたいと願っている。映画だって,私の心に広がり,心が開かれていく映画に出会いたい。その点で小栗康平の「埋もれ木」は私にとって最も喜ばしい出会いとなった。
 少女三人によって紡ぎ出されるラクダやクジラの物語は見事に「今見える世界」と「見てみたい世界」を融合させながら展開する。その物語が独特の光線により詩的な風景となってこの世に現れ出てくる。心を打つ風景を見事に写し取っていく。すべてのショットが死ぬ前の静謐な全肯定のフラッシュバックのようで夢に限りなく近い。

 記憶や魂深く閉じこめられているものは昼に閾を越えることはない。しかし,夕方インディゴブルーに染まった空に,赤い夕焼けが終わると,時間は溶け始める。閉じこめられていた魂の奥の扉はゆっくりと開かれ,現在と過去の境,追憶と夢の境が溶けていく。ここに時空のゆらぎができる。あの世が霧のように湧き上がってくる。はっきりと境をつくっていた編み目からあの世がゆっくりと滲み出てくる。そうして物語の夢ははっきりとした形になっていく。かつて魂の奥深く沈んでいった記憶や見れなかった夢は「埋もれ木」である。

 透き通った水の底に写る時間を超えた私達の真実が浮かび上がってくる。紡ぎ出す物語がその場所をエスコートする。埋もれ木に降りる階段を降りる人々は静かである。

 私達は深い瞑想によってしかこの貴い風景に出会えないのであろうか。いや
そんなことはない。例えば暗闇の中で目を閉じる。眼球を少し押してみる。するとめくりめく光線や形がめまぐるしく自分の世界を行き来するのがわかる。
これは幻想だろうか。いやこの現象を「内部視覚」という。自分の体の中に起きている現実なのである。このめまぐるしい光の芸術や風景,夢に出てくる風景は,私にしか現れないトンパ文字でもある。それぞれ自分の「埋もれ木」に出会うとき人々は深い安らぎを知る。その出会いは感覚であり,詩でしか表現できないものである。小栗康平は見事にその世界を証明して見せた。すばらしいの一言に尽きる。

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