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秋色のさんぽ道-快楽という足枷-

今朝のさんぽ道秋色の今朝のさんぽ道
秋色づいた葉
田んぼの露田んぼに露
秋の色秋色
銀杏イチョウ

今日の一冊
P.マシュレー『文学生産の哲学』藤原書店 廃刊

文学生産の哲学―サドからフーコーまで文学生産の哲学―サドからフーコーまで
(1994/02)
ピエール・マシュレ

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いつから,私は「自由である」ということにことさら敏感になったのだろう。
本を読むことは好きだったけれど,それも「自由になりたい」という気持ちがあって,自分の知らない自由があるかも,と思っていた節がある。そんな私が思っていたことは,快楽と欲望そして自由という感覚が自分の中で落としどころにちゃんと収まる日がいつ来るのかなという問いだった。随分若い頃に立てた問いだった。今朝,さんぽ道を歩いていたときだった。ふと,昔立てたその問いの答えが落ち着いたように感じた。それは本の中の次のような文から始まる。
実際,快楽と欲望の関係はけっして単純ではないし直接的でもない。身体組織が完璧に機能していると感じさせてくれる性的快楽はは内在的なものであり,純粋に自己自身との関係にほかならない。

 快楽とは,内在的で,自己自身との関係にすぎないのだ。この言葉にひっかかっていた。そして快楽を調整できれば,もっと自分が解放され,自由になれるのではないかと感じていた。それは資本主義的な欲望を遠ざけることだとも感じていた。しかし,仏教で言う諦観がこれほど難しいことだとはその頃感じていなかったのである。
 私の若い頃の自由であるというイメージは,例えば村上龍の『コインロッカーベイビーズ』のラスト,しがらみを越えるために主人公がバイクに乗ってスピードを上げていく,というイメージに近かった。何か,自分の身体に貼り付いている汚れたものを剥ぎ取っていくというようなイメージだった。ドライブ感とも言える。

 どうやら私の勘違いは,欲望を満足させることが快楽だと思っていたことだった。むしろ私の中で欲望と快楽との関係が心理的に強化されすぎていたことが原因だったと,今は思う。
したがって,快楽とは欲望の充足だと考えることは絶対にやめるべきだし,快楽と欲望を結びつけている自然な関係も断ち切らなければならない。そして快楽と欲望を対立させ,快楽は欲望の根源的な否定を前提にするものだと考えるべきである。(p192上掲書)

なんだか自分の落としどころに落ち着いたなと感じた今朝のさんぽ道でした。

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