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水の物語「入水する美しい幼子」

水の変容水の変容

 有名な『山椒大夫』は,『安寿と厨子王』という話でもよく知られている悲しい話です。何回読み直しても悲しくなり,どうしてだか,その悲しさには血に染みわたる何かがあり,私自身「説教節」と言われるジャンルに親しみが湧いていたのでした。
 そして,最近『王権と物語』というを読んでいて,幼子が入水して死ぬという筋が実に多いのを知り,更に興味を深めたのでした。無実の罪を被ったり,けがされたりしながら,自ら命を絶つというストーリーは実に切なく心を打つのです。物語の様式としては「貴種流離譚」というそうです。大体が由緒正しい血筋の者(貴種)が罪を着せられたりして,島流しのようになり,親兄弟とも離され,世間を渡り歩く(流離)。世間のありとあらゆる艱難辛苦にまみれても尚,心はいよいよ美しく,やがて親兄弟との再会を待ち望みながら,また絶望する。
 姉の安寿は厨子王に望みを託し,自らは沼に入水する。その場面です。
安寿は泉の畔(ほとり)に立って、並木の松に隠れてはまた現われる後ろ影を小さくなるまで見送った。そして日はようやく午(ひる)に近づくのに、山に登ろうともしない。幸いにきょうはこの方角の山で木を樵(こ)る人がないと見えて、坂道に立って時を過す安寿を見とがめるものもなかった。
 のちに同胞(はらから)を捜しに出た、山椒大夫一家の討手が、この坂の下の沼の端(はた)で、小さい藁履(わらぐつ)を一足(そく)拾った。それは安寿の履(くつ)であった。

 このとき,安寿は15歳でした。このように幼子や稚児が海や川,沼,滝に入水して命を絶つというパターンは穢れを浄化するという意味を持ち,浄化することで共同体のシステムを立て直すという意味もありました。この心を浄化するという仕組みとしての物語は,やがて語りを通して全国に広がっていったのでした。今でも残っている説教節は日人の物語の原型かもしれません。むしろ喜びよりは,悲しみの方が私たちにとっては,よりリアルに感じられるということかも知れません。共同体というシステムは,規律が重んじられる余り,悲しみという装置が必要なのかもしれません。私には宮澤賢治の「銀河鉄道の夜」のカムパネルラの入水も,それに類する話として読めてしまうのです。
 わたしたちの心は実はいつも浄化されることを願っているということなのでしょう。人は,涙を流し,いつも自分の心の美しさを確かめずにはいられないのだと思います。この説教節は脈々と現代の小説やドラマにも受け継がれていると思います。

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