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今年の桜始めました。その19-戻ることのできない道-

山桜残雪と新緑に映える山桜(栗駒山)

 その山桜は人も通わない山奥の落ち込んだ谷の急斜面にへばりつくように立っていた。折りしも満開であった。残雪と新緑に囲まれ清々しく咲いていた。

 人はその出自や境涯を問われるものではない。その土地で,その境遇で,清々しく生きる以外に道は始まらないのである。私はこの山桜を見て,そう思った。

 藤沢周平の原作による映画「山桜」は不幸な家に嫁いだ野江の、「もっとべつの道があったのに、こうして戻ることの出来ない道を歩いている」という悔恨から始まります。人は応々に「もっとべつの道があったのに、こうして戻ることの出来ない道を歩いている」と感じることがあります。映画では山桜に呼び寄せられ,田の畦を歩く野江がぬかるみを渡りそこね,足袋を少し汚すことによって描かれます。自分が本意ではない道を歩かされているという映像による意味の表現です。そして汚れ,鼻緒まで切れた野江の困窮の中で,手塚弥一郎が登場します。「手折って進ぜよう」厳しい境遇の中で満開の花を咲かせる山桜を介し,二人は出会います。野江は桜で花を活けます。
野江の活けた花

 映画ではこの花がアップになり,野江の父親がじっと野江の活けた花を見詰めます。黙ったまま現在の娘の心を推し図ります。花のアップは唐突のようにも感じますが,野江の気持ちを代弁する山桜はとても楚々として美しく感じます。藤沢周平独特の「耐えて待つ」という表現が映画によってうまく生かされている場面でしょう。

 なぜこれ程に挫折と悔恨を美しく描けるのか。わたしは藤沢周平の作品の魅力を考えたときに,そう自分に問います。藤沢周平は夫人に先立たれた半年後,こう知人に手紙をしたためたそうです。
「これまでの人生経験、現在の智力、体力、経済力、そういうもののすべて、僕の頭の先から足の爪先まで、すべてを投げ込んで、結局負けてしまいました」
藤沢自身,人生を「もっとべつの道があったのに、こうして戻ることの出来ない道を歩いている」と感じていたのでしょう。しかし,私が見た深い谷にへばりつくように立っていた山桜のように生きることをやめることはありませんでした。いよいよ美しい作品を次々と書いていったのです。それは指し示す山桜のような美しいものへの憧れがやまなかったためだと私は思っています。

 この山奥に咲く山桜を眺めながら,わたしの今年の桜見の心も落ち着き処に収まったなと感じました。長々と書いた「今年の桜始めました」は,この19回目で終わるでしょう。お付き合いいただいてありがとうございました。

映画「山桜」のサイトは こちら 。藤沢周平の手紙の引用はこのサイトのレビューからです。

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