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自然からの読めない手紙

朝1.5 132sss雪ふりしきる
朝1.5 170s葦の中の道
朝1.5 068sシギ
長沼小鳥12.28 419sやっぱりかわいらしいエナガ

吉増剛造,若林奮展
そもそも10年前の展覧会をわざわざ今取り上げるのは,吉田文憲「顕れる詩 言葉は他界に触れている」を読んだことがきっかけです。この中に吉増剛造のことが書かれていました。

顕れる詩―言葉は他界に触れている顕れる詩―言葉は他界に触れている
(2009/11)
吉田 文憲

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融点・詩と彫刻による展(吉増剛造氏・若林奮教授、他二組の詩人と彫刻家によるコラボレーション展)/2002年11月19日(火)~03年2月11日(火)/うらわ美術館

吉増剛造若林奮
 これは「融点・詩と彫刻による展(吉増剛造氏・若林奮教授、他二組の詩人と彫刻家によるコラボレーション展」の展示の写真ですが,主題は,詩をつくる「言葉」が立ち現れる地点の表現でしょう。空間的に配置された書かれた言葉,文字が打刻された銅板,畳まれた書かれた言葉,3次元的に語られる言葉から立ち上がる魂の似姿だと言うことができます。言葉や文字が「魂入れ」の儀式に立ち会う現場でもあるわけです。空間に配されたすべてのものが距離的に,時間的に繋がり合い,強力な幽なる磁場が立ち上がってくる展示です。吉田文憲氏の著作からその仕掛けを引用します。
吉増剛造は,うらわ美術館の,同じフロアの幾つかの部屋を隔てた展示室にいた。そこで,銅板に何かの文字を彫りつけ(打刻し)ていて,それがそのときのレクチャー室にいる私や私たちの前に映像として送られてくるという仕掛けになっていた。(同掲書「吉増剛造,複数の声・多層な声」p153)
主人公が不在であるところに展開される展示は,そのまま文字や魂が所在不明である,差出人不明の手紙のように世界に浮遊したままです。立ち返る場所はなく,すべては時間と空間の中に解き放たれたまま過去の遺物として彼方の世界からただ残像だけが薄く消えかかりながら陽炎のように漂っているわけです。
 永遠のために打ち付けられた石や銅板に刻まれた文字も,写真というものも,時間や空間から自由になることはできないという姿でもあると反語的に言っていることかもしれません。しかし,敢えて吉増氏は,自由である文字や映像を語りたいがために,言葉,世界,映像をフルに使って表現し続けていると言えます。孤高であることに違いはありません。
 自然や世界には読めない文字の「読みうる可能性」に満ちあふれていることを知らされるし,また黒沢清の「叫」のように一瞬,口が開けられるカオスからの意味の送信に,私が取り付かれていることも確かです。

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コメント

Re: タイトルなし

> 見えることの幸せを感じます。
>
> 文字でふくらむ「イメージ」と
> 映像からの「イメージ」・・
> どうなのでしょう。
>
> 違う手段なのですが、伝わるものが一緒の時もある
> ・・・と思います。
>
>
>
>  ありがとうございました。
>
>  前にも書いたのですが、私は視力が悪いのです。
>  でも、視力はモノが判断出来る程度(運転免許の視力)があれば
>  と、思っています。
>  ・・・後は、感じ(記憶とか・・)で補正すれば・・その方が良いと。
>  
そうですね。
思い,言葉,文字,見ること,感じること。これらはくっついていて引きはがすことがてきません。無理に引きはがすと魔力が消えてしまいます。つまりこの魔力がどうして起こるのか。1+1=3になる力が詩にあるのです。写真もただの記録なはずなのに,感動させる魔力を持つことができます。ここが不思議なんです。

見えることの幸せを感じます。

文字でふくらむ「イメージ」と
映像からの「イメージ」・・
どうなのでしょう。

違う手段なのですが、伝わるものが一緒の時もある
・・・と思います。



 ありがとうございました。

 前にも書いたのですが、私は視力が悪いのです。
 でも、視力はモノが判断出来る程度(運転免許の視力)があれば
 と、思っています。
 ・・・後は、感じ(記憶とか・・)で補正すれば・・その方が良いと。
 


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