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CURE

朝1.25 004sss太陽がやっと出ました。もう7時も過ぎています。遅いですね。只今7:10
朝1.25 023sssやっと林に光が当たります。もうぎりぎりの7:22

 もう7時だというのに,日が差しません。気温は-6℃。
 日の出が遅いです。でもこれから一日1分ずつ日の出が早くなっていきます。日が差してきたなあと思う頃には仕事が始まります。

さて今日のタイトルは「CURE」
黒沢清監督の1997年の映画のタイトルです。
これは今月からWOWOWで,湊かなえ原作の「贖罪」全4話が黒沢清の監督で放映されることを記念して,過去の作品から黒沢清監督の代表作、4作品『ドッペルゲンガー』『回路』『LOFT ロフト』『CURE』が放映されました。その中でも『CURE』は「日本映画史上の傑作」と解説されていました。ここで取り上げたのは傑作と称されるからではありませんが,やはり観て,かなりのインパクトがあったからです。
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(2007/07/27)
役所広司、萩原聖人 他

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 以前に黒沢清のことを書いたときにも,ただのホラー映画と言うよりは,作品自体がひとつの独特の設定になっており,人の壁の弱さを映し出す,そのもろさと不安が作品を特徴付けていることを書きました。以前の記事で私はこう言っています。
他者はいともたやすく「あなたの中に侵入してくる」,むしろ暴力的に侵入してくるものに対して,いつも人は自分を守るすべがない。他者が入ってくることを止められない,自分自身を守ることなどできないのだ。と映像で言い切っている。
 「叫」の冒頭の夢のシーン。壁であっても,窓であっても,不透明なシートであっても,侵入してくるものにとっては障害でも何でもない。他と隔てているはずの壁など,全く意味がなくなる。まさに肉体や心は,すべてすぐ壊れる壁,窓,不透明なシートそのものなのだ。おまけに,あなたが一瞥のもとに見た相手が,脈絡もなく,傷つけられたと感じたら,その罪によっていわれなき攻撃を受けても仕方ないのだ。現実では実際に,こういうことってある。この世に取り込まれた畏れを感ぜずにはいられない。その恐怖の表現の仕方が誰よりも卓抜している。
 私たちはかつて(信じている者は今でも),自分と他者との間の壁を取り払うことを望んできたのではなかったろうか。互いに理解し合う,壁のない世界を私たちは夢見てきた。愛。平和。そんな世界を望むことはできる。
 しかし,愛のために開かれたわたしたちの心には,同時に『幽霊もやってくる。』いつも自分の求める願いに合うものだけがわたしたちにもたらされてきただろうか。
 よく見れば,幽霊とは自分自身でもある。自分の記憶の果てに消えていった無意識世界・・・。自分の所有でありながらまったく記憶にも自覚にもないもの。それらは自分の理解を超えた他者でもある。

作品『CURE』は催眠術という方法でやさしく他者に侵入し,殺人に駆り立てていくという設定です。大切なのは,いともたやすく人は夢に導かれ,たやすく作り変えられてしまうと言うことです。人の心や人格は一押しされればすぐ歪み,変形する。それも水に描く波紋のように変形は拡大していくという「心許ない」姿をさらけ出される設定になっているのが黒沢清のスタンスということになります。その表現はそのまま実存主義的で,見ているとホラーというジャンルに分類はされますが,演出はかなり巧妙です。『CURE』の中で萩原聖人が「お前は誰だ」と,よく口にします。名前を言えば,名というものが呪に晒されます。役職を言えば,「そういう役職のお前は誰だ。」と言われます。問いと返される答えの次元がことごとく意味を消されていくような問いが発せられ続けます。
 心霊主義やメスメリズムなどの歴史的な「箔」の付いた現象にまとめられながら,ことごとく病と健全の地平がめまいのように消え去る不安,足元が覚束ない不安を,ストーリー自体が省略と転換を繰り返すという技で語られていきます。幻覚がリアルに語られるために,ストーリー自体が幻覚の現象を映し出していくという二重の構造になることに耐えられないと,絶えず意味のない現実を突きつけられて,観ている者は意味を見いだせないまま,苦しむことになるでしょう。この黒沢清の作品の「後味の悪さ」こそ,残されてある,一つの映像表現の可能性なのでしょう。

 いよいよ彼の作品の「贖罪」は今度の日曜日,最終回を迎えます。

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