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やどりぎ

雪童子は、風のやうに象の形の丘にのぼりました。雪には風で介殻のやうなかたがつき、その頂には、一本の大きな栗の木が、美しい黄金いろのやどりぎのまりをつけて立つてゐました。(中略)
「あいつは昨日、木炭のそりを押して行つた。砂糖を買つて、じぶんだけ帰つてきたな。」雪童子はわらひながら、手にもつてゐたやどりぎの枝を、ぷいつとこどもになげつけました。枝はまるで弾丸のやうにまつすぐに飛んで行つて、たしかに子供の目の前に落ちました。「水仙月の四日」

 今日の話題は宮澤賢治です。そして,お題は「やどりぎ」です。
 よろしくお付き合い下さい。

 早春のブナ林を歩いているときでした。倒れたブナの木に緑色のやどりぎが着いていました。近くにはシカの糞があり,食べたような痕がありました。
昭和の日 215sやどりぎ
歩きながら,よくよく賢治のことを考えると,結構作品の中や手紙の中に「やどりぎ」が出てくるなあと思ったのでした。「水仙月の四日」以外にも,「赤い鳥」に満を持して応募した「タネリはたしかにいちにち噛んでいたようだった」にもやどりぎが出てきます。でもやどりぎで一番最初に思い出したのは書簡です。
[260] 1930年4月4日 澤里武治あて 封書
(表)上閉伊郡上郷村 上郷尋高小学校内 高橋武治様
(裏)四月四日 花巻町 宮沢賢治(封印)〆
四月四日 高橋武治様

やどりぎありがたうございました。ほかへも頒けましたしうちでもいろいろに使ひました。あれがあったらうと思はれる春の山、仙人峠ヘ行く早瀬川の渓谷や赤羽根の上の緩やかな高原など、をいろいろ思ひうかべました。
この手紙は教え子の中で音楽の才能があった沢里武治が遠野を通って釜石に入る手前の仙人峠のところにある上郷小学校に勤めていたときに送った手紙です。
 やどりぎを送ってもらったのでしょう。そのお礼の手紙です。
昭和の日 028-2s栗駒山を望む
 当時,やどりぎをプレゼントするなんていうことは日常的にあったのでしょうか。やどりぎが,何か貴重なものであったことも考えられます。また賢治が寝込んでいることを知っていた髙橋武治(結婚して婿に入り髙橋姓になった)が薬草としての意味合いでやどりぎを送ったのでしょうか。
 答えは,賢治がやどりぎを送って欲しいと連絡していたのでした。2月に出された葉書があります。
[255](1930年2月9日)澤里武治あて 葉書
(表)上閉伊郡 上郷高尋小学校内 高橋武治様
   九日 花巻町豊沢町 宮沢賢治
寒さもも少しですが変りはありませんか。一月の休みには見えるかと思ってオルガンの本上げないでゐましたが三月は来れますか。わたくしすっかり療って仕事してゐます。命を一つ拾ったやうな訳です。無理をなさらないやうにして下さい。もし三月来られるなら栗の木にっいたやどりぎを二三枝とってきてくれませんか。近くにあったら。
一体賢治はやどりぎを何に使おうとしたのでしょうか。それも「栗の木についたやどりぎ」と,わざわざ指定しています。栗の木についたやどりぎと言えば,「水仙月の四日」の設定そのままです。
昭和の日 181-2sss春のブナ林
 賢治が栗の木に着いたやどりぎを見たのは,小岩井農場だったのでしょう。
「水仙月の四日」が脱稿したと思われるのは大正十一年一月十九日であるが、同一月六日付で、小岩井農場の南方の七つ森と雪の世界とを取り入れた「屈折率」と、「くらかけの雪」とが書かれ、一月九日には、「日輪と太市」を書き、<天の銀盤>の<日輪>や、<吹雪も光りだしたので/太市は毛布の赤いズポンをはいた>といったイメージが描かれる。「水仙月の四日」を構想していた頃、小岩井農場周辺の雪景色が頭にあったことは間違いなかろう。(以上引用)
どうもただの題材としてやどりぎを用いていたわけではないようです。10年前の保阪嘉内宛の手紙にも書いています。
[162](1920年4月)保阪嘉内あて 封書(封筒ナシ)
お手紙ありがたうございました。(中略)
 ゆるやかな丘の起伏を境界線の落葉松の褐色の紐がどこまでも縫ひ、黒い腐植のしめった低地にはかたくりの花がいっぱいに咲きその葉にはあやしい斑が明滅し空いっぱいにすがるらの羽音大きな蟇がつるんだまゝのそのそとあるく。すこしの残雪は春信の版画のやうにかゞやき、そらはかゞやき丘はかゞやき、やどりぎのみはかゞやき、午前十時ころまでは馬はみなうまやのなかにゐます。
ととのはないものですが外山の四月のうたです。
どうも春を告げるモチーフとして賢治の中ではやどりぎが大きな意味をもっていたのでしょう。長い冬が終わりを感じさせるやどりぎという意味です。渡部芳紀の論文をちょっと読みましょう。
昭和の日 219s「水仙月の四日」 論 渡部芳紀
自分が<やった>やどり木を、あの吹雪の中でも手放さず、ずっと持っていてくれた。その子供の振舞いに感激したのである。自分が赤毛布の子供を助けようとしたのは間違っていなかったのである。子供は、雪童子にとり、唯一の心の友なのだから。
 こうした、雪童子の子供に対する暖かな友情が、子供を助けさせたのである。冷たい吹雪の中に咲いた暖かな愛の物語がここにあるのである。 多くの論者が、やどり木に、呪術的な役割を認めているのは正しい。天沢は<呪術的な護符もしくは呪具の痕跡>を見、須田は、J.G.Frazerの「金枝篇」を参考に<再生する象徴>としてのやどり木の役割を指摘している。須田の<やどりぎの枝は、子供の周辺に雪洞的空間を確保してやるための工夫であったろうか>という意見もおもしろい。百科辞典によれば、ヨーロッパでは魔法、幽霊、魔女から身を守るもの、幸運をもたらす木と考えられているという。賢治が、それらのことをどこまで意識していたかはわからないが、やどり木が両者を結びつけ、お守りの役割をはたしたことは違いないのである。(引用おわり)

 確かに日本でも,「寄生木を「寄生-ほよ」とか「飛蔦-とびづた」とか呼んで、万葉集には、山の寄生木を取ってきて千年の長寿を祈る、という大伴家持の歌があります。欧州と日本に同じような信仰があった」そうです。

〔梢あちこち繁くして〕から
梢あちこち繁くして
氷雲の下に織りたるは
やどりぎかとも見えたれど
その黒くして陰気なる
緑金いろをなさざるは
この丘なみの樺の木の
天狗巣群とおぼゆなれ

「冬と銀河ステーション」から
あすこにやどりぎの黄金のゴールが
 さめざめとしてひかってもいい)

結果的に「やどりぎありがたうございました。ほかへも頒けましたし,うちでもいろいろに使ひました。」と書かれた「いろいろ使いました」と言うのは何に使ったのか。そして,分けることが喜ばれることとなっていた当時のやどりぎの価値とはどんなものだったのか。

不思議なままです。

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