待ってくれていた場所

満月 044-2s
待っていてくれた場所


君が待っていてくれた場所
銀杏の葉が今年は特にきれいだったよ

この坂を上ると
いつも君が待っているような気がする




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マッス(塊)に挑む2017

11月日曜 180-2gs
11/5 満月沈む蕪栗沼

蕪栗沼は10月下旬に出されたデータでは,マガン類4万と出たと思いましたが,今朝行ってみて,優に8万はいるように感じました。とにかくすごい数です。一気に飛び立つと空全体がマガンで覆われます。まさに圧倒されます。


11月日曜 317-2gs
11/5朝のスタート

朝の飛びたちを見るのは,今の時期が一番いいかもしれませんね。マガンも慣れてくると散発的な飛び立ち方になってしまいます。一気に全体が飛び立つには今の時期が一番いいかもしれません。ハクチョウも昨年の伊豆沼では2000程いてなかなか南下しなかったようですが,今年はもう南下し始めたようですね。ヒシクイの鳴き声はよく聞きますが,カハーンカハーンというシジュウカラガンの声はまだ聞きませんねえ。シジュウカラガンも着実に数が増えて指定解除になったようですね。ところでフクロウか何かいるのか,カラスが追い立てていましたねえ。昔見たフクロウも伊豆沼では見られなくなりました。コミミズクも数年見ていませんねえ。そうそう以前スミナガシ(チョウ)がいたんですけど,これも見られなくなりました。10年経つと生息している動物相もかなり変わってくるんですね。チョウトンボは復活しましたね。オオムラサキは昔ほど見なくなりましたね。



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弟子であること

4日 043-2gs
11/4朝 東北本線 新田-石越

今日は「弟子であること」というタイトルでお話をします。
出てくる人は宮沢賢治,斉藤宗次郎,内村鑑三などです。

斉藤宗次郎は賢治の「雨ニモマケズ」のモデルではないかと目されている人ですね。その斉藤宗次郎が内村鑑三の愛弟子だと言われていることについてです。一方,内村鑑三は,弟子を取ることなどを嫌っていました。
 「人間の中に師として仰ぐべき人物を求めんとする者は必ず失望すべし、そは彼らの中に師として仰ぐべき理想的人物は一人も存在せざればなり、…」

 「近頃に至り「先生のお顔なりと拝見せんと欲して参上致しました」と言ひて余を訪問する者が折々ある、余は斯かる人らに告げて言ふ「余は他人に見せる為の顔を有たない、また君等は人の顔を見たとて何の益にもならない 神を信じキリストを仰げば、それで人の顔を見る必要は全然無くなるのである」と、日本国に未だ人物崇拝が絶えない、甚だ歎ずべき事である、…」内村鑑三「日々の生涯」から
もちろん内村鑑三にとっては師と言われるべきはキリストのみと考えてもいましたが,内心は人が勝手に内村の中に理想を見たり,ちやほやした後はぱったりと来なくなる人のことを悲しく思っていた節があります。
こんなことも書いています。
 「自分の弟子と称する人で自分に真似る人のあるを知りて嫌悪に耐へない。自分に真似るならば自分の独立独創を真似て貰ひたい。自分は誰にも真似なかつた、故に自分の弟子と称する人は誰にも、その師と仰ぐ人にも、真似て貰ひたくない。…願くば小内村の一人も出でざらん事を。…」
自分のことなど弟子だと言って真似をしてなんになると内村は言いたいのです。

ご存じのように内村鑑三は無教会主義を進めたキリスト教徒です。教会という派に属さず,自らの信仰を貫くという態度を取った人でした。内村は万延元年(1861)生まれ,斉藤は明治10年(1877)生まれでした。斉藤の方が16歳年下でした。内村は日露戦争に沸き返る当時,反戦を『万朝報』紙上で訴えていました。それを読んでいた斎藤も共感し,花巻で納税拒否、徴兵忌避も行うという意気込みを手紙にしたため,内村に送りました。どこまでも一本気の斎藤の手紙を読んだ内村は、すぐさま花巻に出向き,過激な出方を抑える説得にかかるのです。これは日露戦争が勃発する前の年,明治36年(1903)のことでした。
内村と斉藤は当時,どのように知り合ったのでしょうか。その経緯を引用してみます。
斎藤が内村を知ったのは、内村の文章を通してのことであった。斎藤が内村へ送った最初の手紙は「日本国内に義人などいない」と嘆く内村に対して激しく反発する内容であった(5)が、斎藤は内村の著作を読み進める内に、次第に内村に傾倒するようになっていった。その交流の初期は手紙でのやりとりが中心であるが、札幌伝道の帰途盛岡に滞在していた内村を斎藤が尋ねた際に両者ははじめて対面した。1901 年のことである。以後は斎藤が折りを見て上京することもあれば、内村が伝道旅行の際に斎藤のもとに立ち寄ることもあり、両者は親密な交流をするようになった。そして1926 年、斎藤は内村に近侍するために東京に移住し、以後は講演会や「聖書之研究」誌の運営等、内村の伝道活動を手伝った。さらに内村の死後には、岩波書店版『内村鑑三全集』(1932-33 年刊行)の編集実務委員を鈴木俊郎とともに努めている。
岩野祐介「内村鑑三における師弟関係 : 斎藤宗次郎『二荊自叙伝』を手掛かりに」(2006)から

1926年9月斉藤は内村のいる東京に出て,身の回りの世話をし,内村が死ぬまで付き添った。これが斉藤が内村の弟子と言われる経緯です。

伊豆沼 644-2gs
11/3 秋の光 東北本線 新田-梅ヶ沢

内村の周りには聖書研究会を開いてはたくさんの人々が現れては,消えていきました。その中で弟子と目されていた有島武郎も情死し,内村の中には自分の信仰に打ち込むことや誤解されること,いろいろに噂されることなどに対する苛立ちもあったと思われます。そんな思いが自分に対する人物崇拝のようなことはやめてほしい,一人一人の信仰の妨げとなる畏れもあると思い,弟子はとらないし,取るつもりもないという言葉になっていったと思われます。同期の新渡戸稲造や花巻の斉藤宗次郎と匆々たる面々が内村の近くにはいました。

4日 091-2gs
11/4 朝の光 東北本線 石越-新田

弟子であるということはどんなことなのでしょうか。
また弟子など取るつもりはないという内村の無教会主義は何を私たちに教えているのでしょうか。
ここに私は親鸞が自分の子ども善鸞を信仰の流れから義絶したことを思い起こします。親鸞が自分の息子さえ突き放していく厳しい態度は教義のずれを直そうとする行為でもありました。弟子達が教義を曲解し伝えることは致命的なことでもありました。また弟子達によって諍いが生ずることもあってはいけないことでした。日本の中で祖たちがその教えを正しく伝えるために,弟子に注ぐエネルギーはそれを受け継ぐ弟子たちの才能や優秀さだけではない資質も見抜いておかないとできないことであったでしょう。

伊豆沼 655-2s
11/3 おんぶいなごの向こうの電車

斉藤宗次郎が内村鑑三に終生連れ添ったという事実は彼の信仰の一徹さを物語り,また信仰する態度も教えてくれます。
でも内村は弟子をどのように考えていたのでしょうか。先ほど引用した岩野祐介氏の論文のまとめには次のように出てきます。
内村の死後、斎藤は自らの集団を率いていくようなことはしなかった。内村は生前から弟子たちを独立させたがっていたのであり、その点では斎藤が内村の事業を引き継いだとは言い難い。しかし、医療施設の慰問を積極的に行う等、斎藤が地道な伝道活動を続けたのも確かである。そして本書を含む著述や内村の著作をまとめる作業を通した間接的な伝道活動により、現在にまで影響を与えているとも言えるだろう。その点ではやはり斎藤は自分なりのやり方で内村から学んだキリスト教精神を広めた、と言うことができる。さらにそれらは詳細な歴史の記述でもあり、キリスト教研究だけにとどまらない資料的な価値を有している。


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事,蛇蝎(だかつ)と同じ

伊豆沼 043-2gs
11/3今朝の伊豆沼

今朝の伊豆沼は朝霧と美しい雲に彩られた朝になりました。
このような自然の姿を見ていると,誰しも清浄な心持ちになります。

今日のタイトルは「事,蛇蝎(だかつ)と同じ」と付けました。
これは浄土教を解説した中国の僧 善導が人の心の有様を例えた言葉です。「事,蛇蝎(だかつ)と同じ」人の心はヘビやサソリと同じ。人の持っている強欲さと傲慢さを例えて言っている言葉です。私が石仏や板碑などに興味を持ってから,どうやら中世の日本浄土教の中に考え方が集約していくのではと思い始めました。「南無阿弥陀仏」という石碑が全国至る所にあります。遠野の里を歩いても,こちらの寺や道ばたに残っている石仏を見ても,日本人の考え方の底に浄土教が通奏低音のように流れているのではないかと思います。そしてそこから鎌倉時代を経て,大きく宗派仏教として分流していくようです。各宗派はそれそれ厳しく対立しているわけではなく,浄土教の流れを巧みに組み込みながら分立していくようです。
 例えば日蓮も浄土教は否定せず
最後臨終六字名号一遍唱フ可(ベ)シ,此儀秘ス可(ベ)シ
吾ガ宗人等最期ノ一念六字之名号心ノ内ニ唱テ,口外ニ出スベカラズ是他宗ニ見スベカラズ 山形立石寺「日蓮秘伝書」
と浄土教の教義をそのままに自派に引き込んでいくのです。

伊豆沼 571-2s
11/3ハクチョウのスタート

浄土教は法然が祖と習いましたが,その弟子に親鸞がいて,証空という僧もいました。その証空の流れにいたのが一遍です。親鸞の弟子に是信がいて東北へ,一遍も東北へ来て布教しています。東北地方に古くから残る石仏や板碑を見るとやはり浄土教の流れが色濃く残っていると思います。浄土教は浄土三部経という三つの教典があり,それぞれ「無量寿経」「観無量寿経」「阿弥陀経」となるそうです。そして「無量寿経」は阿弥陀仏の本願について,「観無量寿経」は浄土往生の方法について,「阿弥陀経」は極楽浄土について説かれているといいます。そして中国の僧 善導が注釈を行い,極めて優れていたと伝えられています。その優れた解説書『観無量寿経疏』(『観経疏』)4巻を法然が見いだしたのです。親鸞も一遍も浄土教の流れを汲み,そのバリエーションを追究していきました。対照的な2人と言われますが,徹底した他力本願,称名念仏,自力による真実を知ることの断念という点では実に同じです。禅は自力によって悟りへ導かれる点では修行に懸かっている比重がとても大きいものがあるでしょう。

伊豆沼 282-2s
11/3水の紋様

さて,救いの道は三心に帰すと言われます。一つに至誠心(真実の心)二つに深心(深く信じる心)三つに廻向発願心(これまでの修行の功徳を極楽浄土への往生に振り分けて,そのことの成就を願う心)の三つです。私たちは煩悩の徒であり,それらの煩悩を清め(反省し正しき道を望み),善徳を積み(修行を重ね),往生した後にも誠の道を進むという三心が極楽に辿り着く道なのです。

 私たちは誰しも真実を願い,反省をしながら自らの考え方や行いを正そうと生きています。このままの自分でよいのかと自分に問いただすこと自体が発願であり,スタートです。そして他の人のためにいくらかでも力になろうと努力します。つまり善いことを少しずつ重ねることで往生できるとも思っています。つまり積善信仰です。しかし浄土教は他力ながら実に厳しい見方から始まります。どんなに善徳を積んでもそれは貧しい自分勝手な知恵と見栄と偏見でしかないのです。人間の力では何もできないのです。自分の傲慢さを見捨てて,無力さを知ること。このような自己の絶対否定があって初めて他力となる資格を得るのです。その厳しさの極北が親鸞でもありました。人は本当に自分を捨て切って本願を遂げることができるのでしょうか。宗教はいつも人の側から突きつけられて来る問題の深刻さに気付かなくては煩悩の池に溺れてしまうことを言っています。



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